もすればそのうわさは口から口へいわゆる燎原《りょうげん》の火のように伝えられるものである。三月三日に井伊大老《いいたいろう》の殺された報知が電信も汽車もない昔に、五日目にはもう土佐《とさ》の高知《こうち》に届いたという事実がある。今なら電報ですぐ伝わる。
知名の人の旅立ちでも、新聞があるために妙な見送り人が増して停留場が混雑する。この場合にも前と同じ事が言われうる。
展覧会、講演会、演芸、その他の観覧物も新聞広告で予告を受けて都合のいいものかもしれない。しかしこれらの大多数は十日ぐらい前からプログラムの作れぬものでもなし、またそうでなくても適当な掲示やビラによって有効に知らせる事ができる。一般の人々が毎朝起きて床の中でいながらに知らなければならない性質の事でもない。そういう刺激の目にふれないという事は、仕事に没頭している多くの人のためにはむしろ有利なくらいである。
こういう新聞広告がなくなっても、芝居やキネマの観客が減る心配はないという事は保証ができる。興行者と常習的観客の間には必ず適当な巧妙な通信機関がいろいろとくふうされるに違いない。
その他の多くの広告はたいてい日刊新聞によらなくてもすむものである。たとえば書籍雑誌の広告にしたところで、おそらく日本ほど多数でぎょうぎょうしいのはどこの国にもないかもしれない。そして広告のぎょうぎょうしさと書籍の内容は必ずしも伴なわない。これも実は断然やめたほうがいい。私だけの注文を言えば、書店の店頭の大きな立て札もやめてもらいたいくらいである。そのかわりにまじめな信用のできる紹介機関がほしい。なるべく公平な立場からあらゆる出版物を批評して、読者のために忠実な指導者となるものがあってほしい。これは完全を望む事は困難でもある度までは不可能ではない。たとえば科学の方面で言えばネチュアーの巻頭の紹介欄のようなものでもかなり便利である。たとえいくらか批評の見地が偏する恐れはあっても、利害を離れたそれぞれの専門家の忠実な紹介である限り、勝手のわからぬ読者がとんだにせ物を押しつけられる恐れは少ない。
その他あらゆる商品の広告についても全く同様の事が言われる道理である。
単に体裁の上からでも毒々しい広告欄をのけてしまったら今の新聞はもう少し気持ちのいいものになりはしないだろうか。われわれが朝の仕事に取りかかる際に、もう少し清らかな頭をもって、神聖であるべきその日の勤めに対する事ができはしまいか。そうしてただいたずらにいらだたしい心持ちから救われて、めいめいの大事な仕事の能率を高める事ができはしまいか。
広告の次にいわゆる三面記事を取ってしまったらどのくらい気持ちがいいものになるだろう。昔「日本」という新聞があった。三面記事が少しもなくて、うるさいルビーがなかった。私は毎朝あれをただあけて見るだけで気持ちがよかった。ああいう新聞は今日では到底存在を維持しにくいそうである。
今年の正月にノースクリッフ卿《きょう》がコロンボでタイムスの通信員に話した談話の中に、「東洋の新聞の中では日本のがいちばん信用ができる。ただしいわゆる『第三面《サードページ》』として知られた notorious scandal のためにそこなわれてはいるが」とあった。この人のいう事がどこまで信用できるか私にはよくわからないが、ともかくも「第三面」は世界的の notoriety を保有している事になってはいると見える。
「三面」記事も純客観的に正しく書かれれば有益でありうる。たとえば議会や公判の筆記でも、それが忠実なものなら、すべての人の何かの参考になり、少なくも心理学者の研究材料ぐらいにはなる事が多い。それで日刊廃止の場合にこれに代わるべきものの社会記事はできるだけ純客観的で科学的であってほしい。そういう意味で有益なおもしろい記事をタイムス週刊の第一ページや処々の余白の埋め草に発見する事がある。
もしかりに私がこのような週刊や旬刊の社会欄を編集するとしたらどういう記事をおもに出すだろうと考えてみた。人殺しや姦通《かんつう》などを出すとしても、それらはなるべく少なくそして簡単にしたい。書くならばできるだけほんとうの径路を科学的に書く事によってすべての人の頭の奥に潜む罪の胚子《はいし》に警告を与えるようなものにしたい。しかしそういう例外な事件の記事よりも、日常街頭や家庭に起こりつつある、一見平凡でそうして多数の人が軽々に看過していて、しかも吾人の現在の生活に対して重要な意味のあるような事実を指摘し報道して、いくらかでも人々の精神的の幸福を増し不幸を予防するように努めるだけは努めたいものである。
裏町の下水に落ちている犬を子供が助けてやった事実でも、自転車が衝突して両方であやまっていた実例でも適当に描かれれば有意義である。公
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