た。囚虜《しゅうりょ》を幽閉したという深い井戸のような穴があった。夜にでもなったら古い昔のドイツ戦士の幻影がこの穴から出て来て、風雨に曝《さら》された廃墟の上を駆け廻りそうな気がした。城の後ろは切り立てたような懸崖で深く見おろす直下には真黒なキイファアの森が、青ずんだ空気の底に黙り込んでいた。
「国の歴史や伝説やまたお伽話《とぎばなし》でもその国の自然を見た後でなければやっぱり本当には分らない。」誰かの云ったこんな言葉を思い出しながら、一行について岩山を下りた。

      アムステルダアム

 測候所を尋ねて場末の堀河に沿って歩いて行った。子供の時分に夢に見ていた古風な風景画の景色が到るところ眼前に拡がっていた。堀河にもやっている色々の船も、渋くはなやかに汚れた帆も、船頭のだぶだぶした服も、みんなロイスデエルやホベマ時代のヴェルニイがかっていた。
 測候所で案内してくれた助手のB君は剽軽《ひょうきん》で元気のいい男であった。「この晴雨計の使い方を知っているかね、一つ測って見給え」などと云った。別れ際に「ぜひ紹介したい人があるから今晩|宅《うち》へ来てくれ」と云って独りで勝手に約束を
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