ニュース映画と新聞記事
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)挨拶《あいさつ》したり
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一見|些細《ささい》な現象
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和八年一月、映画評論)
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ニュース映画は新聞紙上の報道記事の代用または補充として用いられるものと通例考えられているようであるが、この両者の間の本質的な差別の目標については、少なくも自分の知っているだけの範囲では、まだあまり立ち入った分析的考察が行なわれていないように思われる。しかし、そういう考察を進めて行けば、その結果は、ニュース映画の将来の発展に対して、少なくもなんらかの指針となるべき暗示を生み出すであろうと想像される。自分はこの問題に関してまだ少しも系統的に考察をしてみたわけではないが、ただわずかばかり思いついただけのことをここにしるしてそういう考察の端緒とし、また後日の参考に供したいと思う。
ある一つの市井の人事現象、たとえばある銅像の除幕式の光景の報道という場合の実例について考えてみる。通例の場合においてこれに関する新聞のいわゆる社会面記事はきわめて紋切り形の抽象的な記載であって、読者の官能的印象的な連想を刺激するような実感的表象はほとんど絶無であると言ってもいい。そのかわりに儀式の進行順序や執行者の姓名等は正確に記載されるのが、通例ではなくとも、少なくも理想でありまた可能でもある。ところがこれをニュース映画で見ると、儀式のプログラムの全体としての構成次第などはよくわからず、演説したり挨拶《あいさつ》したりする人がだれだかよくわからなかったりすることもある。そのかわりにそのカメラの視野内に起こった限りの現象は必然的なものも偶然的なものも委細かまわず細大もらさず記録され再現されるのである。たとえば幕が落ちる途中でちょっと一時何かに引っかかったが、すぐに自然にはずれて首尾よく落ちる、その時の幕の形や運動の模様だとか、また式辞を朗読する老紳士の白髪の一束が風に逆立つ光景とか、そういう零細な事象までがことごとくこくめいに記録されるのである。これらの一見|些細《ささい》な現象は、カメラマンの少しも意識しないものであり、その現場に臨んだ人々も、ほとんどなんの意義をも感ぜずなんら
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