の印銘をも受けないことであるに相違ない。しかし、よく考えてみると、某年某月某日某所で行なわれた某の銅像除幕式を他のある日ある場所で行なわれた他の除幕式と明白に弁別しようとするときに最も著しき目標となるものは何であるかというと、かえって上記のごとき零細|些末《さまつ》な現象が意外にも重大な役目をつとめることを発見して驚く場合があるであろう。こういう意味から言えば、新聞記事に現われた除幕式は純然たる概念的公式的の除幕式であって、甲のものと、乙のものとは人名などの活字面が少しちがうだけであって、どれもこれも具象的内容においては全く同じものである。それだから、記者が列席もしないのに列席したような顔をして書いても少しも不都合はない、午後に行なわれる儀式に関する原稿をその午前に書いて夕刊に出す。それで大臣がさしつかえができて出席しなくても記事にはちゃんと列席して式辞を読んだことになるのである。
新聞記事はこれに限らず、人殺しでも心中《しんじゅう》でも、皆一定の公式があって、簡単に無理やりにその型にはめ込んで書いてしまうから、どの事件も同じように不合理非常識な概念の化け物でこね上げられたものになっているのは周知の事実である。しかしこれは必ずしもこれらの記事を執筆する個々の記者の責めばかりには帰せられない。少なくもある点までは新聞の社会記事というもの自身に本質的に内在する元来無理な要求から来る自然の結果であるかもしれない。その上にかてて加えて往々記者の認識不足が不合理の上に不自然の上塗りをするのであろう。
映画の場合においてもカメラを向け動かすものは人間であるから、そこに選択の自由があり従って人為的な公式定型の参加する余地は充分にある。しかしレンズとフィルムは物質であってなんらの既成概念もなければ抽象能力もない、一見ばか正直のようであって、しかも広大無辺の正確なる認識能力を所有しているのである。試みにたったひとこまの皮膜に写った形像を精細に言葉で記載しようとしてもおそらく千万言を費やしてもなおすべてを尽くすことは不可能であろう。写真影像は現象の記載ではなくて、現象そのものだからである。
そのかわりに、あるいはそれだから、写真は事象の全体を系統的に把握《はあく》する能力をもっていない。それをするには撮影技師の分析的頭脳と、フィルムの断片を総合する編集者の総合的才能を必要とするの
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