ずれも襟頸《えりくび》の皮膚が渋紙色に見事に染めあげられている。もう一人はなんだか元気がなくて襟頸もあまり焼けていない。どうした訳かと聞いてみるとまだ新米《しんまい》だそうである。まだ新米にさえもならない自分の顔がその日どんなであったかは自分には分らない。疲れはしないかと三人から度々聞かれた。
このキャディのような環境におかれた少年は例えば昔の本郷青木堂の小店員のごとく大概妙に悪ずれがしてくるものであるが、ここの子供達はそんな風が目に立たない。このリンクの御客が概して地味で真面目で威張らない人の多いせいかもしれない。
いつか、このキャディのうちの一人がリンクの池で鮒《ふな》を一匹つかまえて、ボールを洗う四角な水桶の中に入れておいて、一廻りした後に取りに来たらもう見えなかったそうである。こんなのんびりした世界でさえも、自分の手でしっかり握っていない限り私有物の所有権は確定しないものと見える。してみるとやっぱり自分の腕以外にたよりになる財産はないかもしれない。
ゴルフもだんだん見ているとなかなか六かしい複雑な技術だということが少しは分って来る。少なくも、単に棒の頭で球をなぐって飛ばせると云うだけではないことがわずかに一時間半ばかりの見学でよく分ったような気がした。この日M君N君の解説を聞いたことだけから考えても、すべての芸道に共通な要領がゴルフの術にも要求されていることが分る。一番大事なものはやはり心の自由風流であるらしい。
人間が球を飛ばせたり転がしたりする遊戯の種類が一体どのくらいあるか数え切れないほどあるらしい。近代的のものでもゴルフの外に庭球野球|蹴球《しゅうきゅう》籠球《ろうきゅう》排球などがあり、今は流行《はや》らぬクリケット、クロケーから、室内用にはピンポン、ビリアードそれから例のコリントゲームまである。日本の昔でも手鞠《てまり》や打毬《だきゅう》や蹴鞠《けまり》はかなり古いものらしい。
人間ばかりかと思うと、猫などが喜んで紙を丸めたボールをころがすのが、なんら直接功利的な目的があってするとは思われないから、やはりスポーツの一種らしく思われる。尤もこれは結果から見ると鼠を捕えたりするときに必要な運動の敏活さを修練するに有効かもしれない。家畜の糞を丸めてボールを作り転がし歩く黄金虫《こがねむし》がある。あれは生活の資料を運搬する労働ではあろうがとに
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