かく人間から見ると一種の球技である。
オットセイは鼻の頭で鞠《まり》をつく芸当に堪能である。あれはこの動物にとっては全く飼主の曲馬師から褒美の鮮魚一尾を貰うための労役に過ぎないであろうが、娯楽のために入場券を買ってはいった観客の眼には立派な一つの球技として観賞されるであろう。不思議なのはこの動物にそういう芸を仕込まれ得る素質がどうして備わっているかということである。彼等の自然の生活に何かしらこれに似た所行がありはしないかという疑問が起る。
動物の場合にはこれらの球技は直接間接に食うための労役である。人間の場合においては、球技を職業とする人は格別、普通にはとにかく不生産的の遊戯であり、日常生活の営みからの臨時転向《アヴオケーション》である。こう思ってしまえば誠に簡単であるが、自分にはどうもそうばかりとは思われない。人間が色々な球を弄《もてあそ》ぶことに興味を感じるのには、もっと深い本能的な起源があるのではないかという気がする。例えば人間の文化の曙光時代にわれわれの祖先のまた祖先が生きて行くために必要であったある技術と因果の連鎖でこっそりつながれているのではないかという空想も起されないことはない。
もしか、そうであったと仮定すると、昔は腹を張らせるために使用された球が今では腹をへらすために使われている勘定になる。
赤羽のリンク半日の清遊の帰り途に、円タクに揺られているうちにこんな空想が白日の夢のように頭の中をかすめて通ったのであった。
ついでながら、人間のする大概の所業は動物界にもその原型を見出すことが出来るが、ただ「煙」をこしらえてそれを吸うという芸当だけは全く人間だけに限るようである。それでこの最も人間的な人間固有の享楽と慰安に資料を供給する専売局の仕事はこの点で最も独自なものであると云われるかもしれない。それでこの機会を利用して専売局に敬意を表すると同時に、当事者がますます煙草に関する科学的芸術的ないし経済的研究を進められて、今よりも一層優良な煙草を一層|廉価《れんか》で供給されんことを希望する次第である。[#地から1字上げ](昭和九年八月『専売協会誌』)
底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
1997(平成9)年3月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年6月15日作成
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