いないかであるといった人がある。当否は別としておもしろい話である。いったい日本人ぐらいいわゆる風景に対して関心をもつ国民が他にあるかどうか自分には疑わしい。文人画の元祖である中華民国でも、美術の本場であるフランスでも、一般人士の間にはたして日本の老幼男女に共通な意味でのよい景色を賞観する心持ちがあるかどうかわからない。少なくもアメリカの百万長者がアルプスの空気と光線に健康とエネルギーを求めて歩く間に、多くの日本人の観光客はそのほかにおまけとして山水の美の中から日本人らしい詩を拾って歩くであろう。そうして、もう一つのおみやげには思い思いのカメラの目にアルプスの魂を圧縮して持ち帰ろうとするであろう。
 年じゅう同じ天気の国では天気という言葉が無意味であると同じように、どこまで行っても同じような景色ばかりの国におい立った民族には風景という言葉は存在理由がないはずである。シベリアの農民やモンタナのインド人にこの言葉があるかどうか聞いてみたい。英語やドイツ語やフランス語の風景という言葉にしても、それがわれわれのいう風景とはたしてどこまで内容的に一致するかも研究に値する。それはいずれにしても、日本
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