表する塩煎餅屋《しおせんべいや》や袋物屋や芸者屋の立派に生存しているのもやはり印画記録の価値が充分にある。
 六国史《りっこくし》などを読んで、奈良朝《ならちょう》の昔にシナ文化の洪水《こうずい》が当時の都人士の生活を浸したころの状態をいろいろに想像してみると、おそらく今の東京とかなり共通な現象を呈していたのではないかと思われることがしばしばある。惜しいことにそのころの写真が残っていない。しかしそのつもりで後代の風俗絵巻物でも細かに研究してみたらやはり各時代に同様な現象を発見するのではないかとも想像される。
 鳥羽僧正《とばそうじょう》の鳥獣戯画なども当時のスポーツやいろいろの享楽生活のカリカチュアと思って見ればこの僧正はやはり一種のカメラをさげて歩いた一人であったかもしれない。この僧正にアメリカ野球選手との試合を記録させなかったのは残念である。
 新東京の街路や河岸《かし》に立って、ありとあらゆる異種の要素の細かい切片の入り乱れた光景を見るときに、私は自然に日本帝国の地質図を思い出す。いろいろの時代のいろいろの火成岩や水成岩が実に細かいきれぎれになってつづれの錦《にしき》を織り出している。この事実は一方では地震や火山の多いこととも関係するが、一方ではまた日本の風景の多種多様なことや、ひいてはまた国々の郷土的色彩の変化の多いこととも連関していると思われる。われわれの祖先から住み古したこの国土の地質自身からがすでにあらゆる世界じゅうのものの縮図的にできているのではないか。その上に、人種の上から考えても、灰色の昔から、日のいずる方《かた》を求めて世界のあらゆる方面から自然にこの極東の島環国に集中した種族の数は決して二通りや三通りでなかったであろうということは、われわれの周囲の人々の顔の中にギリシア型、ローマ型、ユダヤ型をはじめインディアン型、マレイ型、エスキモー型からニグロ型までことごとく標本的に具備しているという簡単な事実からでも想像される。あらゆる民族の中の勇敢な進取的な連中が自然に寄り集まってできた国だとすれば、日本は世界じゅうでいちばんえらい国でなければならないはずである。
 それは疑問としてもその上にまだ山川風土でありとあらゆる多様のタイプを具備している。実際|千島《ちしま》カラフトの果てから台湾《たいわん》の果てまで数えれば、気候でもまず文化民の生活に適する
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