限り一通りはそろっている。こういう珍しい千代紙式に多様な模様を染め付けられた国の首都としての東京市街であってみれば、おもちゃ箱やごみ箱を引っくり返したような乱雑さ、ないしはつづれの錦の美しさが至るところに見いだされてもそれは別に不思議なことでもなければ、慨嘆するにも当たらないことであるかもしれない。そしておそらく古い昔から実質的には今と同じ状態がなんべんとなく少しずつちがった形式で繰り返されながら、あらゆる異種の要素がおのずから消化され同化され、無秩序の混乱から統整の固有文化が発育して来ると、たとえだれがどんなに骨を折ってみても、日本全体を赤色にしろ白色にしろただの一色に塗りつぶそうという努力は結局無効に終わるであろうと思われる。それにはまず日本の地質から気候から改造してかからなければおそらくできない相談であろう。日ごろからいだいていたこんな考えが昨今カメラをさげて復興帝都の裏河岸《うらがし》を歩いている間にさらにいくらかでも保証されるような気がするのである。
西洋を旅行している間に出会う黄色い顔をした人間が日本人であるかシナ人であるかを判断する一つの簡単な目標は写真機をさげているかいないかであるといった人がある。当否は別としておもしろい話である。いったい日本人ぐらいいわゆる風景に対して関心をもつ国民が他にあるかどうか自分には疑わしい。文人画の元祖である中華民国でも、美術の本場であるフランスでも、一般人士の間にはたして日本の老幼男女に共通な意味でのよい景色を賞観する心持ちがあるかどうかわからない。少なくもアメリカの百万長者がアルプスの空気と光線に健康とエネルギーを求めて歩く間に、多くの日本人の観光客はそのほかにおまけとして山水の美の中から日本人らしい詩を拾って歩くであろう。そうして、もう一つのおみやげには思い思いのカメラの目にアルプスの魂を圧縮して持ち帰ろうとするであろう。
年じゅう同じ天気の国では天気という言葉が無意味であると同じように、どこまで行っても同じような景色ばかりの国におい立った民族には風景という言葉は存在理由がないはずである。シベリアの農民やモンタナのインド人にこの言葉があるかどうか聞いてみたい。英語やドイツ語やフランス語の風景という言葉にしても、それがわれわれのいう風景とはたしてどこまで内容的に一致するかも研究に値する。それはいずれにしても、日本
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