の平凡な光景がカメラの目からは非常におもしろく見えるのであった。昭和通《しょうわどお》りに二つ並んで建ちかかっている大ビルディングの鉄骨構造をねらったピントの中へ板橋《いたばし》あたりから来たかと思う駄馬《だば》が顔を出したり、小さな教会堂の門前へ隣のカフェの開業祝いの花輪飾りが押し立ててあったり、また日本一モダーンなショーウィンドウの前にめざしの頭が二つ三つころがっていたりするのもやはりカメラの目を通して得られた小さな発見であった。
 こういう目をもって見て歩いた新東京の市街ほど不思議な市街はおそらく世界じゅうどこを捜してもないであろう。極端な古いものから極端な新しいものまでが、平気できわめてあたりまえな顔をして隣り合い並び立って、仲よくにぎやかに一九三一年らしい東京ジャズを奏しているのである。こういうものに長い間慣らされて来たわれわれはもはやそれらから不調和とか矛盾とかを感ずる代わりに、かえってその間に新しい一種の興趣らしいものを感じさせられるのであろう。現代人は相生、調和の美しさはもはや眠けを誘うだけであって、相剋《そうこく》争闘の爆音のほうが古典的|和弦《かげん》などよりもはるかに快く聞かれるのであろう。そういう爆音を街頭に放散しているものの随一はカフェやバーの正面の装飾美術であろう。ちょうどいろいろな商品のレッテルを郭大して家の正面へはり付けたという感じである。考えようではなかなか美しいと思われるのもあるがしかしいずれにしても実に瞬間的《エフェメラル》な存在を表象するようなものばかりである。このような珍しい現象の記録をそれが消えない今のうちに収集しておくのは、切手やマッチのレッテルの収集よりは有意義であろうと思っていたが、近刊の板垣鷹穂《いたがきたかお》氏著「芸術的現代の諸相」の中に、このような収集の一部が発表されているのを見てなるほどと思うのであった。これらの特殊なインスチチューションの名前がまた実に興味あるものであって、これも記録しておく価値がある。近ごろ見かけた珍しいものの一つとしてはサンスクリットで孔雀《くじゃく》という意味の言葉を入り口の頭上の色ガラス窓にデワナガリー文字で現わしたのさえあった。ダミアンティやシャクンタラのような妖姫《ようき》がサーヴするかと思わせるのもおもしろい。
 こういうものの並んでいる間に散点してまた実に昔のままの日本を代
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング