ハからやっとこの故障の原因が分ったというような挿話もあった。
 酸素対水素の比重に関する最初の論文を出したのは一八八八年で、つまりこの仕事をはじめてから三年の後である。その後のは一八八九年と一八九二年に出た。結果の比は一五・八八二であった。水素の純度について苦心していたとき、デュワー(Dewar)はスペクトル分析をすすめた。それに関するレーリーの手紙に「スペクトロスコピーの泥沼に踏込むことになっても困るが」と書いてある。
 この頃『大英百科全書』の第九版の編輯《へんしゅう》が進行していた。これにレーリーの「光学」と「光の波動論」が出ることになった。彼の原稿があまり専門的であった上に予定の頁数を超過するので編輯者の方から苦情が出た。そのために一部を割愛して後に "Aberration" と題して『ネーチュアー』誌に掲載した。後日彼は、あるアメリカの農夫が『百科全書』を買ってAからZまで通読しているという噂をして「私の波動論をどう片付けるか見ものだ」と云った。
 一八八四年にレーリーは王立協会の評議員をつとめたことがあった。その後当時の幹事ストークスが会長になることになったので後任幹事の席が
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