@と私信の中に書いている。これも一つのコロンバスの玉子であろう。
 一八七九年の十一月五日にマクスウェルが死んだので、ケンブリッジではキャヴェンディッシ講座の後任者が問題となった。ウィリアム・タムソンは到底引受ける見込がなかったので、人々の目指すところはレーリー卿であった。タムソンはレーリーに手紙を書いた。「自分は生涯グラスゴーを離れられない因縁がある。貴方が引受けてくれれば誠に喜ばしい。しかし教授の職に附帯したうるさい仕事のために研究が出来なくなるという心配があれば、また適当な後任者の出来るまで当分の間だけ引受けるというのだったら、むしろ御断りになる方がいいと思う」という意味のことを忠告した。万事控え目なストークスは一切黙っていた。
 当時レーリーの家の財政は前述のようにかなり困難な状態にあった。相続当時計画していたような大規模な研究室を作り、数人の有給助手をおくような望みは絶えてしまった。こういう環境の下にレーリーは遂に就任を承諾した。そうして一八七九年十二月十二日にこの名誉な椅子に就いた。
 当時のキャヴェンディッシ研究室はかなり貧弱なものであった。日常の費用はマクスウェルの小使
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