概、書記や執事や代言人に任せてあって、彼自身は大審院の役をつとめるだけであった。家作の修理などを執事がすすめてもなかなか受入れなかった。
 農業に関する知識は相当にあって、人工肥料の問題にも興味があり、この点では却って旧弊な執事等より進取的であった。
 弟の Edward Strutt が大学卒業後農事に身を入れるようになったので、一八七六年に家産全部の管理を弟に一任し、生涯再び家事には煩わされなくてもいいようになった。この時弟のエドワードはわずか二十二歳であったのである。吾々はこのエドワードに感謝したい気がする。
 一八七七年の春はマデイラへの航海をした。昔夫人の父が肺病でここに避寒に行って亡くなったのである。その時の乗船にケルヴィンの羅針盤が三台備えてあった。タムソンはレーリーに手紙をやって、どうかこの器械を見て意見を聞かせてくれと頼んだ。その手紙に添えて彼の測深器の論文も送るとある。マデイラの断崖で気流の実験をして鳥の飛翔の問題を考えたりした。帰途プリモースに上陸し、そこからフルードの船型試験室を訪問した。レーリーはフルードの才能と人柄を尊敬していた。二人の行き方はどこか共通なと
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