り適当でなかった。それで一八八〇年までは全く助手なしで独りで実験していた。しかし後ではやはり助手のなかった事を悔いた。
 一八七六年の Cambridge Mathematical Tripos の試験には補助試験官に選ばれた。その試験問題の討究のために試験官仲間をターリングに招待したが、そのためにソリスベリー卿とディスレリーとの和解の饗宴という歴史的のシーンに出席する機会を逸した。レーリーの出した試験問題(Coll.Pap.,1,p.280)にはオリジナルな点があった。問題が急所に触れていてただの elegant academic exercise ではなかった。
 一八七三年にレーリーが家督を相続した頃は農業も相当有利であったが、一八七四年に外国貿易の頓挫した影響から、引いて農民の窮迫を来し、従って地主の財政も極めて不利になった。一八七九年から翌年へかけては小作人がだんだん土地を返上して来たので、地主は自作するより外途がなくなった。この財政の困難ということが、レーリーをしてケンブリッジの教授としての招聘《しょうへい》に応じさせた主要な原因であったと云われている。
 相続後の家政は大
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