が開設されたが、このために家が振動して困るという苦情が出たので、政府はそのために調査委員を設け、レーリーが委員長になった。色々実験の結果モーターの取付けに適当な弾条《ばね》をつけただけで、この問題は容易に解決された。
青年時代に手をつけた「空の青色」に関する問題が、二十六年後の一八九九年に現われた論文で取扱われている。空気分子自身による光の分散によって青色が説明され、それから分子数が算定される事を示した。
永い間レーリーの手足となって働いて来たジョージ・ゴルドンが一九〇四年の暮に病死した。それから一年ほどは助手なしであったが、子息すなわち現在のレーリー卿が休暇で帰っているときは父を助けてガラス吹きや金工をやっていた。一九〇五年に新しい助手 J. C. Enock を得たが、この人は一九〇八年にターリングを去った。
一八七六年頃から音の方向知覚の問題に興味を感じていたが、一九〇六年に到って、両耳に来る波の位相の差がこの知覚に重要な因子であることをたしかめた。
一八九九年に彼の全集の第一巻が出た。この巻頭に聖歌の一節 "The works of the Lord are great, ……" を刷るつもりであったが、出版所の秘書が云いにくそうに「これでは、ひょっとすると、Lord すなわち貴方《あなた》だと読者が思うかもしれませんが」と注意した。なるほどというのでこの句は別の句に移した。
全集の終りの第六巻は彼の死んだ翌年に出た。論文の総数四六六である。彼の論文のスタイルはコンサイスで一種独特の風貌がある。数学的論文と純実験的論文とが併立しているのも目に立つ。彼はまた論文の終りに短い摘要を添えるのが嫌いであった。理由は、摘要だけ見たのでは実験の内容にはないものまでも責を負わされる虞《おそれ》があるというのであった。
彼は自分でもしばしば言明したように、全く自分の楽しみのために学問をし研究をした。興味の向くままに六かしい数学的理論もやれば、甲虫の色を調べたり、コーヒー茶碗をガラス板の上に滑らせたりした。彼にはいわゆる専門はなかった。しかし何でも、手を着ければ端的に問題の要点に肉迫した。
彼自身は楽しみにやっていても、学界はその効績を認めない訳には行かなかった。一九〇二年エドワード王が Order of Merit を設けた時に最初に選ばれた十二人の中にレーリ
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