hysical Laboratory)の設立が問題となって調査委員会が出来たときにレーリーが議長に選ばれ、いよいよ設立となったときには副委員長となった。研究所長にグレーズブルックが推挙されたのは、レーリーの考えから出たに相違ない。この創立に際して中心人物となるにはレーリーは最も適任であった。科学者の側からも信頼されると同時に政府側の有力者、また貴族の間に信用が厚かったからである。
 一九〇三年に「肝油事件」というのが起った。それは所長が知人から頼まれて肝油の分析をしてやった、その分析表が訴訟事件の証拠物件となり、分析業者や化学者の団体から抗議が出てだいぶ面倒な問題になったのである。これが動機となって研究所の存在理由に関する質問が議会に出たりしたが、これに対する答弁には同所で出版された論文集二巻が役に立った。その後もこの研究所の財政問題などで心を煩わすことが多かったようである。純粋な自由研究と政府の要求に応ずるような功利的研究との融和|塩梅《あんばい》も最も痛切な困難であったらしい。一九一九年彼の死ぬる少し前に辞表を出し、間もなくグレーズブルックも停年で退職した。

 一八九七年頃レーリーは自分の仕事が少しだれ気味になるのを自覚した。それで気を変えるために休暇の必要を感じた。一八九八年の初めにインドのプーナー(Poonah)で皆既日蝕《かいきにっしょく》が見られるというので思い立って十月末にコロンボ行の船に乗って出掛けた。インドでは到るところで歓迎されたが、それは貴族としてであって、彼を迎えた人達は彼の科学上の仕事などは全く知らないように見えた。彼はインド魔術を面白がり、夫人がいろいろの、彼から見ると無駄な買物をするのを気にしたりした。
 一九〇〇年軍務局で爆発物調査委員会が設置されたとき、レーリーが委員長に選ばれた。彼の好みにはあまり合わないこの仕事を、彼は愛国的感情から引受けたと云われている。無煙火薬の形を管状にする方が有利であるということを論じた論文が全集の第五巻に出ているのはこういう機縁に因るのである。
 一九〇一年には Chief Gas Examiner(ガス受給に関する監督局の長官)に任命され、ガス法規修正案の調査会の議長となり、また訴訟問題の判定に参与したりした。この職には死ぬまで停《とど》まっていたのである。
 一九〇一年にロンドンのチューブ地下鉄道
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