楽しみの一つであった。昼飯後コーヒーを出す習慣が始まった頃、どうもだんだん世の中が贅沢になって困ると云い云いコップを手にした。午後の散歩には農園を見巡る事もあった。豚とその習性に興味があった。夏は散歩の代りにローンテニスもやった。かなりうまかったが、五十歳後は止めてしまった。実験室で一、二時間仕事をしてからお茶になる。一杯の茶が有効な刺戟剤であった。仕事の難点が一杯の茶をのんでしまうとするすると解決するということも珍しくなかった。お茶の後、ことに冬季はよく子供達と遊んだ。ポンチの漫画を見せたり、また Engineering 誌の器械の図を見せたり、また「ロンドンを見せてやる」と称して子供に股覗《またのぞ》きをさせ、股の間から出した腕をつかまえて、ひっくら返す遊戯をした。しかし子供の不従順に対しては厳格であった。「子供を打擲《ちょうちゃく》するのはいやなものだ、あと一日気持が悪い」と云った。六時に実験室へ行って八時まで仕事。着物を更《か》えて晩餐、食後新聞、雑誌、小説など。トランプもやった。若いうち就寝前の一時間を実験室か書卓で費やしたが、晩年はやめた。そうして、十一時から十二時頃までは安楽椅子でうたた寝をしてから寝室へ行くという不思議な癖があった。
 煙草は生涯吸わず、匂いも嫌いであった。音楽は好きであったが深入りはしなかった。政治上の談論に興味があった。
 ターリングの家の来訪者名簿には、内外の一流の学者の名前の外に英国一流政治家の名前も見える。
 一八九二年にはソリスベリー卿の懇請でエセックス州の名誉知事(Lord Lieutenant)を引受けさせられた。一九〇一年ボーア戦争後、軍隊組織に関する新しい職責が加わったので辞職した。その時の辞表が一枚の紙片に鉛筆で書いたものであったので当局者は苦い顔をしたそうである。彼はその頃色鉛筆を愛用していた。
 一八九五年にはトリニティ・ハウス(海事協会)の学術顧問に聘《へい》せられた。かつてはファラデー、ティンダルの務めた職である。一八九七―一九一三年の間、しばしば所属のヨット、イレネ号に、国王や王子その他のいわゆる Elder Brethren と一緒に乗込んで燈台の検分をしたり、燈光や霧報(fog−signals)の試験をした。これには色や音に関する彼の知識が役に立ったのである。
 国民科学研究所(National P
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