ーの名も入っていた。ケルヴィンやキチナー将軍や画家のワッツなども顔を並べていた。また一九〇四年にはノーベル賞を受けた。一九〇五年には王立協会の会長に選ばれたが、五年の期限が満たない三年後に辞任した。その理由は、長い海外旅行をしたいというのと、少し耳が遠くて困るというのと、外国語がよくしゃべれないので外国人との交渉に不便だというのであった。一九〇八年ケンブリッジで名誉総長デヴォンシャヤー公が死んで、その椅子がレーリーに廻って来た。就任式の仰々しい行列は彼にいささか滑稽に思われたようであった。見物人の群衆の中に交じった自分の息子を発見した時、眼をパチパチとさせて眼くばせをした。そういう心持を眼で伝えたのである。この時の記念としてレーリー賞の資金が集められた。彼はまた大学財政の窮乏を救うためにカーネギーを説いたり、タイムス紙を通して世間に訴えたりした。一九〇九年のダーウィン百年祭はレーリー総長の司会で行われたが、その時の彼の追懐演説に現われたダーウィンの風貌は興味が深いものであった。また一九一一年に出た版権法修正案が大学の権利を脅かすものであったので、総長レーリーは上院で反対演説をした。
 レーリーは前から南洋の島々を見たいという希望をもっていた。一九〇八―九年の冬の間に南アフリカへ遊びに来ないかという招待を、時の南アの長官セルボーン卿から受けたので、そのついでに南洋へも廻る気で出かけた。しかしケープからシドニーへの荒い旅路は遂に彼の南洋行を思い止まらせた。アフリカでキンバーレー、ヴィクトリア滝を見てプレトリアへの途上赤痢に罹り、その報知はロンドンを驚かせた。それからナタル、ザンジバールをも見舞った。アフリカ沿岸航海中に深海の水色について色々の観察をした。その結果を一九一〇年に発表したが、彼の説は後にラマン等の研究によって訂正された。この旅行の帰途ナポリでカプリの琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]洞《ろうかんどう》をも見物したのであった。
 南ア旅行から帰ったときは、病後のせいもあったが、あまり元気がなかった。もう仕事をする気力がなくなったのではないかという気がした。それでも帰るとから水の色に関する実験をぽつぽつ始めた。この頃から以後は全く実験助手なしであったから仕事は思わしく進まなかった。従って自然に数学的な方面の仕事に傾いて行った。彼は六十七歳になったが研究
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