き、それにレーリーが推挙された。色々の雑務をなるべく他の人にやらせるからという条件で彼を説き伏せた。主な仕事は論文の審査であった。彼は四十年前の審査員に握り潰されていた論文|反古《ほご》の中から J. J. Waterston という男の仕事を掘出し、それがガス論に関すジュール、クラウジウス、マクスウェルの仕事の先駆をなしていることを発見して、これを出版し、同時に隠れたこの著者の行衛《ゆくえ》を詮索したりした。この奇人は数年前行衛不明になっていた。
協会の集会に列席する以外は大抵ターリングに居て書信で用を足した。そうして一八九六年まで十一年間この職をつとめた。協会幹事として彼はウィラード・ギブスの酬われざる貢献を認めこれを表彰したいと望んだが、化学方面の評議員が「あれは化学じゃない」と云って承知せず、ケルヴィン卿までも反対した。レーリーはこう云ってこぼした。「ケルヴィンは、自分の考えがいろいろあるからだろうが、それならそれで、ちゃんとそれを発表すべきだと思う。」しかしずっと後になって最高の栄誉と考えられるコプリー賞牌《しょうはい》が授与されることになったのである。それ以前にギブスがレーリーに送った手紙に「自分でもこの論文は長過ぎるのが難だと思う。しかしこれを書いたときは、自分のためにも読者のためにも、時間の価値など考えなかった」とある。
王立協会幹事在職中に色盲検査法に関する調査委員会の委員長をつとめた。一方ではこの期間に彼は政治界の嵐に捲込まれ、郷里で演説をしたり、弟の立候補の声援運動を助けたりした。義兄弟のバルフォーア、当時のアイルランド政務総監がターリングへ遊びに来た時は護衛の警官が十二人もついて来たりした。スコットランドへ旅行して鳶色《とびいろ》をした泥炭地の河水の泡に興味を感じて色々実験をしたのもこの時代のことであった。
家産の管理を引受けた弟のエドワードは始めは月給を貰っていたが、後には利益配当の方法によった。小麦が安くなったので、乳牛を飼い始め、一八八五年に十二頭だったのが一九一九年レーリーの死んだ年には八〇〇頭の牝牛と六十人の搾乳夫が居た。ロンドン中に八箇所の牛乳配達店をもっていた。王立美術協会の絵画展覧会に彼の肖像が出品された時に、観客の一人が「三四二号、ロード・レーリー、アー、あの牛乳屋か」と云っているのを聞いた友人があった。ある時は営業
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