繧フ事で警察へ呼ばれたが、出頭しなかったので五ポンドの罰金を取られた。
 酸素と水素の比重を定めた次の仕事は当然窒素の比重を定めることであった。その結果がアルゴンの発見となったのは周知の事実である。空気から酸素と水素を除いて得たものと、 Vernon−Harcourt 法で得たものとのわずかな差違を見逃さなかったのが始まりである。彼はその結果を『ネーチュアー』誌に載せて化学者の批評と示教を乞うた。そうしてあらゆる方法で、あらゆる可能性を考慮して、周到な測定を繰返した後に、結局空気から得たあらゆる窒素と化学的に得られるあらゆる窒素とが、それぞれ一定のしかも異なる比重をもつという結果に到着した。その間に彼は、昔キャヴェンディッシが自分と同じ道をあるいていたことを知って驚いたりした。ラムゼーが同時に同じ目的の研究を進めていることが分ったが、喧嘩にはならないで、二人は手を携えて稀有ガス発見の途を進んで行った。「空気中の新元素アルゴン」と題する論文が王立協会で発表されたのは一八九五年の正月であった。これと一緒にこのガスの性質に関するオルツェウスキーとクルックスの論文も出た。同時に、この新元素に対する疑惑の眼も四方から光っていたために色々な不愉快も経験しなければならなかった。後年彼は「この仕事で得たものは愉快よりもむしろ苦痛の方が多かった」とつぶやいていた。しかし模範的に周到な注意によって築き上げた結果は、時の試練に堪えて、あらゆる懐疑者は泣寝入りとなった。アルゴンに次いで他の稀有ガスが発見された。今日我帝都の夜を飾るネオンサインを見る時に、吾々はレーリー卿の昔の辛苦を偲ぶ義務を感ずるであろう。
 一八九四―九六年に『音響学』の第二版が出た。これに増補された交流に関する章の一節は、十年ほど前に大英学術協会に提出したものであるが、その時どうした訳か出した論文原稿に著者の名が抜けていた。審査委員はつまらぬ人の寄稿だと思って危うくこの論文を落第させようとした。しかし著者の名が判ってから、早速及第ということになったのである。
 一八九五年に彼は再び心霊現象の実験に携わったが、やはり失望する外はなかった。この年の八月には Dieppe で疲労を休めた。その時母への手紙に "I suppose however that one's brain has a chance of recruiti
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