ろうと計画していた研究の一つは、主要なガス元素の比重を精密に測定してブラウト方則を験しようというのであった。これは何でもないようでなかなかの大仕事であった。レーリーの手一つでは間に合わないので、ケンブリッジの助手前記のゴルドンを呼び寄せた。彼は家族を挙げてターリングの邸内に移り、死ぬまでここでレーリーの片腕となって働いた。村人は時々「旦那様の遊戯部屋」の「実験室」についてゴルドンに質問し "That ain't much good, is it?" などと云った。
 ガス比重測定は、一八四五年レニョー(Regnault)の発表したもの以来誰もやらなかった。レーリーはレニョーの実験における浮力の補正に誤りのあることに気付いたので、もう一度詳しくやり直す必要を感じたのである。
 地下室の中に作った天秤室《てんびんしつ》の空気を乾かすのに、毛布を使ったりしたところにレーリーの面目が現われている。二つのガラス球の容積の差を補正するために添えたU字管に、眼に見えぬくらいの亀裂があったのを気付かないでいたために不可解な故障が起って、ほとんど絶望しかけたとき、珍しい低気圧がやって来て、その時の異常な結果からやっとこの故障の原因が分ったというような挿話もあった。
 酸素対水素の比重に関する最初の論文を出したのは一八八八年で、つまりこの仕事をはじめてから三年の後である。その後のは一八八九年と一八九二年に出た。結果の比は一五・八八二であった。水素の純度について苦心していたとき、デュワー(Dewar)はスペクトル分析をすすめた。それに関するレーリーの手紙に「スペクトロスコピーの泥沼に踏込むことになっても困るが」と書いてある。
 この頃『大英百科全書』の第九版の編輯《へんしゅう》が進行していた。これにレーリーの「光学」と「光の波動論」が出ることになった。彼の原稿があまり専門的であった上に予定の頁数を超過するので編輯者の方から苦情が出た。そのために一部を割愛して後に "Aberration" と題して『ネーチュアー』誌に掲載した。後日彼は、あるアメリカの農夫が『百科全書』を買ってAからZまで通読しているという噂をして「私の波動論をどう片付けるか見ものだ」と云った。
 一八八四年にレーリーは王立協会の評議員をつとめたことがあった。その後当時の幹事ストークスが会長になることになったので後任幹事の席が
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