Wェットに対する電気の作用」などをやっていたが、そのうちに彼の頭の中では大規模の仕事の計画が熟しつつあった。すなわち電気単位の測定を決定的にやり直すことであった。先ず最初にオームの測定にかかった。一八六三―六四年にマクスウェルその他の委員によって設定された B. A. 単位はその後コールラウシュ、ローランド、ウェーバー等の測定で十二パーセントの開きを生じていたのである。この仕事にはアーサー・シュスターが加担し、シジウィック夫人も手伝った。B. A. の方法によって一八八一年に得た結果は、これと同時にグレーズブルックが他の方法でやったものとよく一致した。またこの結果が熱の器械的等量の電気的測定の結果と器械的測定の結果との齟齬《そご》を撤回したので、ジュールはたいそう喜んだ手紙をレーリーに寄せた。しかしレーリーはこれだけでは満足せずに、更にロレンツ(Lorenz)の方法によってやり直しをして、その結果を確かめた。結局三年かかって得た彼の結果は、その後多数の優秀な学者によって繰返された測定によっても事実上なんらの開きを生じなかった。
次にはアンペーアの測定にかかった。この際クラーク電池の長所を認めていわゆるH型のものを工夫した。レーリーの定めたこの電池の e. m. f. の価もその後の時の試煉に堪えたのである。
電気単位に関する国際的会議のいきさつはここには略するが、この問題に関してレーリーの仕事が重要な要石《かなめいし》となったことは明らかである。
彼の指導を受けていたジェー・ジェー・タムソンが引続いて e. s. u. と e. m. u. との比を測定することにかかった。タムソンの仕事ぶりを見ていたレーリーは、"Thomson rather ran away with it." と云って一切をこの若者の手に任せてしまった。後進の能力を認めこれに信頼することの出来ない大御所的大家ではなかったのである。
ケンブリッジ在職中の私生活も吾々にはなかなか興味がある。ここでもソリスベリーの別荘に住んでいた。講義のない日の午前はたいてい宅で仕事をしていた。昼飯の時には子息のためまた自分の稽古のために、なるべく仏語で話すことを主張した。それから二頭の小馬をつけた無蓋馬車をレーリー男爵夫人が自ら御して大学へ出勤し、そこで午後中、時には夜まで実験をやった。午後のお茶は実験室内の
前へ
次へ
全29ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング