ウ授室で催され、夫人と姉のシジウィック夫人もしばしば列席した。茶瓶の口が欠けていたので夫人が新しいのと取換えようと云ったが、「これでも結構間に合う」と云って、そのままになった。夕食前の数分間には子供部屋をおとずれている彼を見かけた。一八八〇年七月には三番目の子息のジュリアンが生れた。その年の八月にはスコットランドに旅してアルジル公の客となり、ヨットに乗って「長湖」に浮んだり、公爵の子供の時に見たという狐火《きつねび》(will−o'−the−wisp)の話に興味をもったりした。
 一八八一年三月に Trinity の Honorary Fellow になった。マクスウェルの後を継いだのである。丁度ヘルムホルツも学位を受けに来合せて夫婦連れで二晩泊った。「ヘルムホルツは対話ではさっぱり要領を得なかったが、しかし彼は very fine head をもっている」と評した。
 一八八二年サザンプトンにおける大英学術協会では Section A の座長をつとめた。その時の座長の演説の中に物理学者の二つの流派、すなわち実験派と理論派との各自の偏見から来る無用の争いを誡《いまし》めた一節は、そのまま現代にもあてはまるべきものである。会のあとでプリモースへ行ってそこで始めて電話というものを実見した。そして何よりもその器械の簡単さに驚いた。「これは確かに驚くべき器械である。しかし大した実用にはなりそうもない」と云っているのは面白い。
 一八八二年十月に発熱性のリューマチスに罹って数週間出勤が出来なかった。丁度この時に王立協会から恩賜賞(Royal Medal)を貰ったが受取りに出ることが出来なかった。実験室ではグレーズブルックとショーが引受けていて時々病床へ何かの相談に来た。加減のいい時は小説『岩窟王』を読んでいた。二、三年後長子と散歩していたときにこの話をして聞かせた。そしてこの主人公の復讐はクリスチャンとしてはあまりひど過ぎると云った。
 病後の冬休みにはイタリアへ転地し、フロレンス近くのバルフォーア家の別荘に落着いた。ピサの傾塔やガリレーの振子よりも彼を喜ばせたものはその浸礼堂の円塔の不思議な反響の現象であった。
 この病気は時々再発の気味があったので、再び転養のためにホンブルク(Homburg)に行った。そこで毎午前はマクスウェルの色の図に対する面倒な対数表計算をやった。夫人
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