ノ漢《でんしゃかん》のかくれていた事を記念したい。
 レーリーは器械が役に立ちさえすれば体裁などは構わなかった。それでゴルドンがいよいよ最後の「仕上げ」にかかる頃には、早速召し上げて行って使った。
 マクスウェル付きの demonstrator が辞任したあとへグレーズブルックとショー(R.T.Glazebrook & W. N. Shaw)が就任した。この二人の手を借りて学生の実験演習の系統的なコースを設立した。この、現在我国の大学でもやっているような規則正しいコースがケンブリッジに無かったのである。このコースを書物に纏めたのがすなわち Glazebrook & Shaw : Practical Physics である。感じ炎の実験などがあるところにレーリーの面影が出ている。
 レーリーの最初の講義は「物理器械使用法」で、次は「湿電気(galvanic electricity)と電磁気」であった。当時まだ galvanic electricity などという語が行われていたのである。聴講者はただの十六人であった。この数は彼の在職中あまり変化はなかった。当時の思い出を書いたシジウィック夫人(レーリー卿夫人の姉エリーノア)の記事に拠ると「彼が人々の研究を鼓舞し、また自分の仕事の援助者を得るに成効した所以《ゆえん》は、主に彼の温雅な人柄と、人の仕事に対する同情ある興味とであった」。彼はこの教授としての仕事を充分享楽しているよに見えた。「彼の特徴として、物を観るのに広い見地から全体を概観した。樹を見て森を見遁《みのが》すような心配は決してなかった。」「いつでも大きな方のはしっこ[#「はしっこ」に傍点](big end)をつかまえてかかった。」「手製の粗末な器械を愛したのも畢竟《ひっきょう》同じ行き方であった。無用のものは出来るだけなくして骨まで裸にすることを好んだ。」
 ナイルの河船でレーリーから数学を教わったエリーノア嬢は、その後シジウィック夫人となってからはケンブリッジに居を構えていた。そうしてレーリーの在職中は絶えず彼の研究の助手となって働くことを楽しみとしていた。することが綿密丹念で手綺麗で、面倒な計算をチェックしたり、実験の読取りを記帳し、また自分でも読取りをやった。レーリーの論文にこの婦人と共著になったものがいくつかある。
 就任当時は従来やりかけていた「水の
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