@と私信の中に書いている。これも一つのコロンバスの玉子であろう。
一八七九年の十一月五日にマクスウェルが死んだので、ケンブリッジではキャヴェンディッシ講座の後任者が問題となった。ウィリアム・タムソンは到底引受ける見込がなかったので、人々の目指すところはレーリー卿であった。タムソンはレーリーに手紙を書いた。「自分は生涯グラスゴーを離れられない因縁がある。貴方が引受けてくれれば誠に喜ばしい。しかし教授の職に附帯したうるさい仕事のために研究が出来なくなるという心配があれば、また適当な後任者の出来るまで当分の間だけ引受けるというのだったら、むしろ御断りになる方がいいと思う」という意味のことを忠告した。万事控え目なストークスは一切黙っていた。
当時レーリーの家の財政は前述のようにかなり困難な状態にあった。相続当時計画していたような大規模な研究室を作り、数人の有給助手をおくような望みは絶えてしまった。こういう環境の下にレーリーは遂に就任を承諾した。そうして一八七九年十二月十二日にこの名誉な椅子に就いた。
当時のキャヴェンディッシ研究室はかなり貧弱なものであった。日常の費用はマクスウェルの小使銭から出るような始末であったので、レーリーは取敢えず研究資金の募集にかかった。先ず自分で五〇〇ポンド、当時の名誉総長デヴォンシャヤー公が五〇〇ポンド出した。その他の寄附を合計して一五〇〇ポンドを得た。また教授のポケットにはいる学生の授業料もこの方につぎ込むということにした。
学生に一般的な初歩の実験を教えるという案を立てたが、その頃まだ学生用の器械などは市場になかった。幸いにジェームス・スチュアルト教授の器械工場の援助を得て、簡単で安いガルヴァなどを沢山作らせることが出来た。
マクスウェルから引継いだ助手は、事務家ではあったがあまり役に立たなかった。それが間もなく死んだので後任者を募集したときに出て来たのがジョージ・ゴルドン(George Gordon)であった。もとリヴァプールの船工であっただけに、木工、金工に通じていたのみならず、暇さえあれば感応コイルを巻いたり、顕微鏡のプレパラートを作ったりするような男であった。田舎弁で饒舌《しゃべ》り立てるには少し弱ったが、しかし大変気に入って、これがとうとう終りまでレーリーの伴侶となったのである。レーリーの立派な仕事の楽屋にはこの忠実な田
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