概、書記や執事や代言人に任せてあって、彼自身は大審院の役をつとめるだけであった。家作の修理などを執事がすすめてもなかなか受入れなかった。
 農業に関する知識は相当にあって、人工肥料の問題にも興味があり、この点では却って旧弊な執事等より進取的であった。
 弟の Edward Strutt が大学卒業後農事に身を入れるようになったので、一八七六年に家産全部の管理を弟に一任し、生涯再び家事には煩わされなくてもいいようになった。この時弟のエドワードはわずか二十二歳であったのである。吾々はこのエドワードに感謝したい気がする。
 一八七七年の春はマデイラへの航海をした。昔夫人の父が肺病でここに避寒に行って亡くなったのである。その時の乗船にケルヴィンの羅針盤が三台備えてあった。タムソンはレーリーに手紙をやって、どうかこの器械を見て意見を聞かせてくれと頼んだ。その手紙に添えて彼の測深器の論文も送るとある。マデイラの断崖で気流の実験をして鳥の飛翔の問題を考えたりした。帰途プリモースに上陸し、そこからフルードの船型試験室を訪問した。レーリーはフルードの才能と人柄を尊敬していた。二人の行き方はどこか共通なところがあった。最も簡単な推理によって問題の要点を直進するところが似ていると、今のレーリー卿が評している。
 一八七八年の五月に王立研究所(Royal Institution)で色に関する講演をした。十月二日には次男の Arthur(後に海軍士官)が生れた。一八七八ー七九年には王立研究所の評議員を務めた。
 一八七七年に彼の Theory of Sound の初版がマクミラン(Macmillan)から出版された。一八七三年のナイル旅行の船中で稿を起したのが、足かけ五年目に脱稿したのである。書いて行く間に色々の新しい問題が続出する、それを一々追究してはその結果を別々の論文で発表していた。この著書の草稿は Mathem. Trip. の試験答案の裏面を利用して書いたのであった。ヘルムホルツは『ネーチュアー』誌上にこの書の紹介を書き、この書は正にタムソン―テートの『物理学』に比肩すべき名著であると云った。タムソン―テートの書物が遂に完結せずに了《おわ》った一つの理由は、レーリーのこの書とマクスウェルの『電磁気学』が出て、それで大体書くべきことは尽されたからというのであった。これはタムソン自身の
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