の点「職務不忠実」であったのである。
一八七五年八月、ブリストルの大英学術協会に出席中に郷里から電報で呼びかえされた。彼の長子で現在のレーリー卿たる Robert John Strutt が生れたのであった。
一八七五年から七六年にわたる冬の数箇月間ビーチャム・タワー(Beauchamp Tower)というエンジニアーを助手として水力学の実験をした。この人は有名なフルード(William Froude)の弟子であった。前に述べた「白鳥池」を利用して水力実験室を作り、色々の形の穴から水を流出させるときの孔内の圧力分布を測ろうというのであった。この実験はその後にマロック(Arnulph Mallock)が完成し、而《しか》してレーリーの理論的の計算と一致する結果を得た。
一八七六―七七年の冬には、やはりフルードの弟子で、また親戚であった前記のマロックを助手として液体力学の実験をした。不思議なことにはこの時やった実験のことをすっかり忘れてしまって、四十一年後になって同様な実験をやることの提案をしている。
タワーやマロックのような、自分で独立の研究の出来るような人は彼の助手としてはあまり適当でなかった。それで一八八〇年までは全く助手なしで独りで実験していた。しかし後ではやはり助手のなかった事を悔いた。
一八七六年の Cambridge Mathematical Tripos の試験には補助試験官に選ばれた。その試験問題の討究のために試験官仲間をターリングに招待したが、そのためにソリスベリー卿とディスレリーとの和解の饗宴という歴史的のシーンに出席する機会を逸した。レーリーの出した試験問題(Coll.Pap.,1,p.280)にはオリジナルな点があった。問題が急所に触れていてただの elegant academic exercise ではなかった。
一八七三年にレーリーが家督を相続した頃は農業も相当有利であったが、一八七四年に外国貿易の頓挫した影響から、引いて農民の窮迫を来し、従って地主の財政も極めて不利になった。一八七九年から翌年へかけては小作人がだんだん土地を返上して来たので、地主は自作するより外途がなくなった。この財政の困難ということが、レーリーをしてケンブリッジの教授としての招聘《しょうへい》に応じさせた主要な原因であったと云われている。
相続後の家政は大
前へ
次へ
全29ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング