スが物理学であるかについて夢想だもしないという事が可能となるわけである。もっともこれはその人が立派な一人前の物理学者となるためには少しも妨げとはならない事も事実である。それは日本人とはいかなるものかを少しも考えてみることなしに立派な日本人でありうると同じ事である。それでこの学者が自分の題目だけを追究している間は少しの不都合も起こらないのであるが、一度こういう学者たちが寄り合って、互いに科学というものの本質や目的や範囲に関する各自の考えを開陳し合ってみたら、その考えがいかに区々なものであるかを発見して驚くことであろうと思う。甲が最も科学的と思う事が乙には工業的に思われたり、乙が最も科学的と考えることが甲には最も非科学的な遊戯と思われたりするという意外な事実に気がつくであろう。
丙は数理の応用が最高の科学的の仕事だと考えている間に、丁は実験や測定こそ真に貴重な科学の本筋であると考えているのを発見するであろう。もっともこのようにめいめいの見解の相違する事は、必ずしも科学の進歩に妨げを生じないのみならず、あるいはかえってむしろ必要な事であるかもしれない。しかし今ルクレチウスに科学の名を与える
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