。ルクレチウスを紹介せんとするに当たってまずこの点に誤解のないように、わざわざ贅言《ぜいげん》を費やす必要を感じる。しかしルクレチウスの書の内容を科学的と名づけるということについては多くの異論があるに相違ない。特に現在のいわゆる精密科学の学徒から見れば到底彼らの考える科学の領域に容《い》れることを承認し難いものと考えられるに相違ない。
 問題は畢竟《ひっきょう》科学とはなんぞや、精密科学とはなんぞやということに帰着する。しかしこの問題は明らかに科学の問題ではなく従って科学者自身だけでは容易に答えられない問題である。私も今ここでこのむつかしい問題の考察を試みる考えはないのであるが、ただ現在の精密科学の学生たちの多くが、この問題にあまりにはなはだしく無関心であることは事実である。彼らは高等学校から大学へ来て各自専門の科学の部門の豊富な課程に食傷するほどの教育を受けるのであるが、いまだかつてどこでも科学とかなんとかいう事についての考察の端緒をも授けられないのである。その結果はどうであるか。たとえば物理学の課程を立派に修得し、さらに大学院に入り五年間の研究の成果によって学位を得た後においても、何が物理学であるかについて夢想だもしないという事が可能となるわけである。もっともこれはその人が立派な一人前の物理学者となるためには少しも妨げとはならない事も事実である。それは日本人とはいかなるものかを少しも考えてみることなしに立派な日本人でありうると同じ事である。それでこの学者が自分の題目だけを追究している間は少しの不都合も起こらないのであるが、一度こういう学者たちが寄り合って、互いに科学というものの本質や目的や範囲に関する各自の考えを開陳し合ってみたら、その考えがいかに区々なものであるかを発見して驚くことであろうと思う。甲が最も科学的と思う事が乙には工業的に思われたり、乙が最も科学的と考えることが甲には最も非科学的な遊戯と思われたりするという意外な事実に気がつくであろう。
 丙は数理の応用が最高の科学的の仕事だと考えている間に、丁は実験や測定こそ真に貴重な科学の本筋であると考えているのを発見するであろう。もっともこのようにめいめいの見解の相違する事は、必ずしも科学の進歩に妨げを生じないのみならず、あるいはかえってむしろ必要な事であるかもしれない。しかし今ルクレチウスに科学の名を与えるか与えないかという問題となると、前述の見解の相違の結果が明瞭《めいりょう》に現われて来るのである。
 現在の精密科学の方法の重要な目標は高級な数理の応用と、精緻《せいち》な器械を用いる測定である。これが百年前の物理学と今の物理学との間に截然《せつぜん》たる区別の目標を与えるのである。それで考え方によっては物理的科学の進歩すなわち応用数学と器械の進歩であるかのごとき感じを与えるのである。今もしこの二つの目標に準拠してルクレチウスを批判し採点するとすればどうであろう。これはいうまでもなく全然落第でありゼロである。なんとなれば全巻を通じて簡単な代数式一つなく、またなんらの簡易な器械を用いていかなる量を測定した痕跡《こんせき》もないからである。
 しかし、今一方に数理と器械を持たない赤手《せきしゅ》のルクレチウスを立たせ、これと並べて他方に数学書と器械を山ほど積み上げた戸棚《とだな》を並立させてよくよくながめて見るのもおもしろい。ルクレチウスは素手でともかくも後代の物理的科学の基礎を置いたことは事実であるのに、頭脳のない書物と器械だけでは科学は秋毫《しゅうごう》も進められないのである。
 この明白なる事実は不幸にして往々忘れられる。数学と器械が、それを駆使する目に見えぬ魂の力によって初めて現わし得た偉大な効果に対する感嘆の念は、いつのまにか数学と器械そのものに対する偶像的礼拝の心に推移しようとする傾向を生ずる。そういう傾向は特に現代のアカデミックな教育を受けた若い学生の間に多いのみならず、また西洋でも二三流以下の学者の中にかなりに存在するように見える。この迷信の結果は往々はなはだしく滑稽《こっけい》な事になって来る。きわめて不適当あるいは誤った考えを前提としてそして恐ろしくめんどうな高等数学の数式を取り扱い、その解式が得られると、その数式の神秘な力によって、瓦礫《がれき》の前提から宝玉の結果が生まれるかのような気がしたり、またその計算がむつかしくめんどうであればあるほど、その結果の物理的価値が高められるかのごとき幻覚を生ぜしめることもまれではないようである。しかし数学の応用は畢竟《ひっきょう》前提の分析である。鉛を化して金とする魔力はないのである。同じように立派な高価な器械を使えば使うほど何かしらいい結果が得られるというような漠然《ばくぜん》たる予感もやはり器械に対する一つ
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