記述には、今の電子を思わせるある物もある。電火によって金属の熔融《ようゆう》するのは、これら粒子の進入のために金属元子の結合がゆるめらるるといっているのも興味がある。
雷雨の季節的分布を論ずる条において、寒暑の接触を雷雨の成立条件と考えているのも見のがすことができない。
竜巻《たつまき》についてもかなり正しい観察と、真に近い考察がある。
雲の生成に凝縮心核を考えているのは卓見である。そして天外より飛来する粒子の考えなどは、現在の宇宙微塵《コスミカルダスト》や太陽からの放射粒子線を連想させる。
次に地震の問題に移って、地殻《ちかく》内部構造に論及するのは今も同じである。ただ彼は地下に空洞《くうどう》の存在を仮定し、その空洞を満たすに「風」をもってしたのは困るようであるが、この「風」を熔岩《ようがん》と翻訳すれば現在の考えに近くなる。彼はまた地下に「川」や「水たまり」を考えている。これは熔岩の脈やポケットをさすと見られる。この空洞の壁の墜落が地震を起こすと考える。このままの考えは近年まで残存した。重いものの墜落の衝動が地に波及するという考えも暗示されている。
「地下の風」の圧力が地の傾動を起こし震動を起こすという考えが、最近のマグマ運動と地震の関係に関する学説を連想させる。
津波の記事の加えられているのは地震国たるギリシア・ローマの学者にして始めてありうるものであろう。
次には大洋の水量の恒久と関係して蒸発や土壌《どじょう》の滲透性《しんとうせい》が説かれている。
火山を人体の病気にたとえた後に、物の大きさの相対性に論及し、何物も全和に対しては無に等しいと宣言している。
また火山の生因として海水が地下に滲透《しんとう》し、それが噴火山の根を養うという現代でもしばしば繰り返される仮説もまたその端緒をルクレチウスに見いだすことができるのである。
ナイルの洪水《こうずい》の問題についても四箇条のオルターネティヴがあげてある。この四箇条などは、おそらく今でもどこかの川について地文学者のだれかが月並みに繰り返しつつあるものと全然同様である。
次には毒ガス泉や井戸水の問題がある。井水の温度に関する彼の説明は奇抜である。
その次に磁石の説が来るのは今の科学書の体裁と比較して見れば唐突の感がある。ただし著者のつもりは、あらゆる「不思議」を解説するにあるのであって、科学の系統を述べているのでないと思えばよい。
磁石の作用を考えている中に「感応」の観念の胚子《はいし》、「力の場」「指力線」などの考えの萌芽《ほうが》らしいものも見られる。しかし全体としての説明は不幸にして今の言葉には容易に書き直されないものである。
終わりには「病気」に関する一節があって、そこには風土病と気候の関係が論ぜられ、また伝染病の種子としての黴菌《ばいきん》のごときものが認められる。
最後にアゼンスにおける疫病流行当時の状況がリアルな恐ろしさをもって描き出されている。マンローによればこれはおもにツキジデスを訳したものだそうであり中には誤謬《ごびゅう》もあるそうである。これは医者が読んだらさだめておもしろいものであろうと思う。この中には種々多様の悪疫の症状が混合してしるされているそうである。この一節はいわゆる空気伝染をなす病気の実例として付け加えられたものであろう。
この疫病の記述によってルクレチウスの De Rerum Natura は終わっている。これはわれわれになんとなく物足りない感じを与える。ルクレチウスはおそらく、この後にさらに何物かを付加する考えがあったのではないか。私はこの書に結末らしい結末のない事をかえっておもしろくも思うものである。実際科学の巻物には始めはあっても終わりはないはずである。
後記
ルクレチウスの書によってわれわれの学ぶべきものは、その中の具体的事象の知識でもなくまたその論理でもなく、ただその中に貫流する科学的精神である。この意味でこの書は一部の貴重なる経典である。もし時代に応じて適当に釈注を加えさえすれば、これは永久に適用さるべき科学方法論の解説書である。またわれわれの科学的想像力の枯渇した場合に啓示の霊水をくむべき不死の泉である。また知識の中毒によって起こった壊血症を治するヴィタミンである。
現代科学の花や実の美しさを賛美するわれわれは、往々にしてその根幹を忘却しがちである。ルクレチウスは実にわれわれにこの科学系統の根幹を思い出させる。そうする事によってのみわれわれは科学の幹に新しい枝を発見する機会を得るのであろう。
実際昔も今も、科学の前衛線に立って何か一つの新しき道を開いた第一流の学者たちは、ある意味でルクレチウスの後裔《こうえい》であった。現在でもニエルス・ボーアやド・ブローリーのごときは明
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