らかにその子孫である。彼らはただ現時の最高のアカデミックの課程を修得したルクレチウスにほかならないのである。
エネルギー不滅論の祖とせらるるロベルト・マイアーは最もよくルクレチウスの衣鉢《えはつ》を伝えた後裔であった。しかし彼は不幸にしてその当代の物理学に精通しなかったために、その偉大なる論文は当時の物理学界からしりぞけられた。しかして当時の学界へのパッスを所有していた他のルクレチウスの子孫ヘルムホルツによって始めて明るみに出るようになった。
現代の科学がルクレチウスだけで進められようとは思われない。しかしルクレチウスなしにいかなる科学の部門でも未知の領域に一歩も踏み出すことは困難であろう。
今かりに現代科学者が科学者として持つべき要素として三つのものを抽出する。一つはルクレチウス的直観能力の要素であってこれをLと名づける。次は数理的分析の能力でこれをSと名づける。第三は器械的実験によって現象を系統化し、帰納する能力である。これをKと名づける。今もしこの三つの能力が測定の可能な量であると仮定すれば、LSKの三つのものを座標として、三次元の八分一《オクタント》空間を考え、その空間の中の種々の領域に種々の科学者を配当する事ができるであろう。
ヘルムホルツや、ケルヴィンやレイノルズのごときはLSKいずれも多分に併有していたものの例である。現存の学者ではジェー・ジェー・タムソンがこのタイプの人であろう。ファラデーや現代のラザフォードやウードのごときはLK軸の面に近く位している。ボルツマン、プランク、ボーア、アインシュタイン、ハイゼンベルク、ディラックらはLS面に近い各点に相当する。ただ L = 0 すなわちSKの面内に座する著名の大家を物色する事が困難である。あるいはレーリー卿のごときは少なくもこの座標軸面に近い大家であったかもしれない。
ゾンマーフェルトやその他の数理物理学者はS軸の上近くに座するものであり、純実験、純測定の大家らはK軸に羅列《られつ》される。これらは科学の成果に仕上げをかける人々である。そうして科学上のピュリタニズムから見て最も尊敬すべき種類の学者である。
しかるにL軸の真上に座する人はもはや科学者ではない。彼らは詩人である。最善の場合において形而上学者《けいじじょうがくしゃ》であるが最悪の場合には妄想者《もうそうしゃ》であり狂者であるかもしれない。こういう人は西洋でも日本でも時々あって科学者を困らせる。しかしたいていの場合彼らの言う事は科学者の参考になるあるものを持っている。すなわち彼らはわれわれにLの要素を供給しうるのである。
もちろん座標中心の付近には科学者の多数が群集していて、中心から遠い所に僅少《きんしょう》の星が輝いているのである。
以上の譬喩《ひゆ》は拙ではあるが、ルクレチウスが現代科学に対して占める独特の位地を説明する一助となるであろう。
誤解のないために繰り返して言う。ルクレチウスのみでは科学は成立しない。しかしまたルクレチウスなしには科学はなんら本質的なる進展を遂げ得ない。
私は科学の学生がただいたずらにL軸の上にのみ進む事を戒めたく思うと同時に、また科学教育に従事する権威者があまりにSK面の中にのみ学生を拘束して、L軸の方向に飛翔《ひしょう》せんとする翼を盲目的に切断せざらん事を切望するものである。
最後に私はこの一編の未熟な解説が、ルクレチウスの面影の一側面をも充分正確に鮮明に描出することを得なかったであろうことを恐れる。そうしてこの点について読者の寛容をこいねがうものである。
ルクレチウスを読み、そうしてその解説を筆にしている間に、しばしば私は一種の興奮を感じないではいられなかった。従って私の冷静なるべき客観的紹介の態度は、往々にしてはなはだしく取り乱され、私の筆端は強い主観的のにおいを発散していることに気がつく。また一方私はルクレチウスをかりて自分の年来培養して来た科学観のあるものを読者に押し売りしつつあるのではないかと反省してみなければならない。しかし私がもしそういう罪を犯す危険が少しもないくらいであったら、私はおそらくルクレチウスの一巻を塵溜《ごみため》の中に投げ込んでしまったであろう。そうしてこの紹介のごときものに筆を執る機会は生涯《しょうがい》来なかったであろう。
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(1) ルクレチウスの atom. 現代の原子と区別するためにかりに元子と訳する。
(2) Newton, Opticks, pp. 375, 376, Second edition, 1718.
(3) L'Illustration, 7 Juillet, 1928.
(4) Daly, Igneous Rocks and their Origin
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