愛を論じた部分の中に遺伝素に関する考えが見いだされる。この考えはよほどまで具体的に現代の遺伝学説に近似するものであって、この事はすでに近ごろのネチュアー(6)[#「(6)」は注釈番号]の寄書欄で注意した人もあったくらいである。

       五

 第五巻の初めにおいて、ルクレチウスは、さらに鋒先《ほこさき》を取り直して彼の敵手たる目的論的学説に反抗している。そうして神を敬遠して世界と没交渉な天の一方に持ち込んでいる。世界が神の所産でないことは世界の欠点だらけなことからもわかると論じている。これをソクラテスが神は善なるゆえに世に悪はない、と言ったのと比較すると、両者の立場の相違がよくわかる。一は公理から演繹《えんえき》し一は事実から帰納するのである。この点からもルクレチウスのほうが自然科学的である。
 そうして世界の可死を論じるために水や空気や火の輪廻《りんね》を引用して種々の地文学的の問題に触れている。また地質学上の輪廻にも暗示を投げている。その記述の中には当然地震や津波も出て来る。
 最も興味あるは宇宙の生成に関する開闢論的《コスモゴニカル》考察である。元子的|渾沌《こんとん》の中から偶然の結合で分離析出が起こるという考えは、日本その他多くの国々の伝説と同様であるが、それを元子論的に見た点がはなはだ近代的であることは前述のとおりである。
 地が静止しているというための彼の説明は遺憾ながら有利に翻訳し難いものである。
 次には星の運行の原因を説明するものとして、四つばかりの可能なオルターネティヴを列挙している。この説明の内容はとにかくとして、この後においても彼はしばしば当面の問題に対して可能であるべき説明をできうる限り列挙せんと努めているのは注意すべき彼の科学的方法である。彼は言う。これらのもののいずれが、この「われわれの世界」で原因となっているかは確実にはわからない。しかし宇宙間に存する「種々の世界」は種々に作られているから、これらの原因のいずれもが、どこかの世界には行なわれているかもしれない。ただこの世界でその中のどれが行なわれているかを断言する事は、自分のように「要心深く歩を進める人間」のすべき事ではないと言っている。
 この方法論は、実は、はなはだ科学的なものである。彼の考えを敷衍《ふえん》して言えば、経験によって明確に否定されないすべての可能性は、すべて真でありうることを認容してかからねばならないというのである。この事は意外にもかえって往々にして現時の科学者によって忘却される。精密という言葉、量的という標語を持ち出す前にまず考えなければならない出発点の質的のオルターネティヴが案外にしばしば粗略に取り扱われる。その結果は、はなはだしく独断的に誤れる仮定に基づいためんどうな数学的理論がひねり出されたりするような現象が起こる。そういう意味でルクレチウスのこの態度は、むしろ今の科学者に必須《ひっす》なものと考えなければならぬ。
 この態度で彼は太陰太陽の週期の異なる理由、昼夜の長短の生ずる理由、月の盈虚《えいきょ》、日月の蝕《しょく》の原因等に関する説明の可能なものを多数に列挙している。これらの説明はそのままには今日適用されないとしても、彼のいうごとく「どこかの他の世界」では適用しうるものを包有している。たとえば盈虚や蝕の説明の中に、近代に至って変光星の光度の週期的変化の説明として提出された模型が明示されてあったりするのは、決して偶然ではなくて、むしろ当然の事である。すなわちこの世界で適用しなかった一つのものが他の世界で適用されるにほかならない。将来においても、このへんの彼の所説の中のある物が、前衛に立って戦う天体物理学者のある行き詰まった考えの中に、なんらかの暗示の閃光《せんこう》を投げ込むこともありうるであろうと思われる。
 開闢論《かいびゃくろん》、天体論の次には、この世界における生物の発生進化の解説が展開されている。まず植物が現われ、次に現われた最初の動物は鳥であった。これは天涯《てんがい》から飛来したものではなくやはり地から生まれた。それはちょうど現に雨や太陽の熱によって肥土から虫が生まれるように生まれたものであると説く。これは近代物理学の大家が、生命の種子を天来の発生物に帰せようとしたつたない説をあざけるようにも聞こえる。人間も初めのうちはやはり地から生まれ、そうして地の細孔から滲出《しんしゅつ》する乳汁《にゅうじゅう》によって養われていた。しかしその後に地がだんだん老衰して来たから、もう産む事をとうにやめてしまったというのである。これは確かに奇説である。しかし彼の学説から見ればそれほど不都合ではあるまい。
 ここで地の老衰を説いた後に
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〔For lapsing ae&ons chan
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