巻を取り扱って来た私の紹介の態度と方法に多少の変更を加える必要を感じる。
以上紹介したところによって、私はルクレチウスの根底に存する科学的精神の一般的諸相と、彼の元子説のおもなる前提ならびにその運用方法の概念だけを不完全ながら伝えることができたように思う。以下の三巻に現われるこれらの根本的なものは、多く述べきたったものの変形であり敷衍《ふえん》であるとも見られる。
また一方、以下各巻に現わるる具体的の自然現象の具体的説明となれば、これらはそのままでは当然現在の科学に照らした批判に堪えうるものではない。
そういうわけであるから、これ以後も従前のごとく逐条的詳細の紹介解説をするとすれば、それはあまりにしばしば無用な重複に陥り、またあまりにわずらわしき些末《さまつ》の詮索《せんさく》に堕するほかはないであろう。たとえそれは読者の寛容を得るとしても、編集者から私に与えられた紙数には限りがある。
それで、私は、以下にはなるべく重複を避けながら、主として科学的に興味あるべき事がらを、やや随意に摘出しながら進行しようと思う。
第四巻の初めにおける重要題目は物体が吾人《ごじん》の視官によって知覚さるる機巧に関するものである。アリストテレスやピタゴラスらは、目から発射するある物が物体を打つために物が見えると考えたのに反して、この著者が物体から飛来する何物かが目を刺激するのであると考えた点は、ともかくも一歩だけ真に近い。しかしその物体から来るものは今日の光線でも光波でもなくて「像」(image)と名づける薄膜状の物質である。これはあたかも蛇《へび》の皮を脱するごとく、物体の表面からはがれて、あとからあとからと八方に飛び出す。その速度は莫大《ばくだい》なものである。これが目を打つと同時にわれわれはその物体の形と色を知覚する。この像が鏡に衝突すると、反射し、そして「裏返し」になって帰って来る。物の距離の感ぜられるのは、像が飛んで来る時に前面の空気を押して目におしつけるためである。そのために鏡に映ったものは、鏡の後ろにあるように距離が感ぜられるというような解説がある。
反射角と入射角と等しいという意味の言葉もある。水中に插入《そうにゅう》した櫂《かい》の曲がって見える事は述べてあるが、屈折の方則らしいものは見いだされない。また数多《あまた》の鏡による重複反射の事実にもともかくも触れてある。
表面の粗なる物体にこの「像」が衝突した場合には、この薄膜の像が破れてしまうから、映像を生じないという説明や、また遠方の物体が不鮮明に見えるのは長く、空中を飛行する間に無数の衝突を受けて、像のとがった角《かど》が次第につぶれてしまうからであるという光の拡乱の説明は、やや近代的なものを含んでいる。
知覚が与えるものは常に正しくても、その判断の誤りから錯覚を生ずると言っていろいろの例もあげてある。そしてこれに続いて自然の認識の基礎となるべきものはしかし結局|吾人《ごじん》の感覚にほかならないという感覚論的方法論の宣言がある。これは後にマッハの一派によって展開されたものの先駆をなすものと見られる。そしてプランクらの「感覚からの開放」という言葉が彼らの意味では正当であるとしても、われわれはこのルクレチウスの所説もまた同時に真理として認容しなければならない。いかに人間が思い上がってみたところで、五官を封じられてしまって、そうして物理学の課程を学ぶ事がどうしてできるであろうか。
音響はやはり一種の放射物であるが「像」のようなものとは考えられていないらしい。そして音の散乱、反射というようなものも、どうにか論じてある。おもしろいのは音の回折の事実を述べてある所に、ホイゲンスの原理に似た考えが認められる。すなわち一つの音から次の音が生まれる。ちょうど一つの火花から多くの火花が生まれるようだと言っているのである。そして、光は影を作るが音は影を作らない事実に注意を向けている。
私は昔ある場所の入学試験の問題として、音波と光波の見かけの上の回折の差を証明する事を求めたが、正解らしい要点に触れたものはまれであった。多くの学生らは教科書に書いてない眼前の問題はあまり考えてみないものと思われる。そして教わったものなら、どんなめんどうな数式でも暗記していて、所問に当たろうが当たるまいが、そのままに答案用紙に書き並べるのである。二千年前のルクレチウスのほうがよりよき科学者であるのか、今の教育方針が悪いのか、これも問題である。
香や味の問題その他生理学的の問題の所説は全部略する。ただこの条に連関して人間の生活官能は人間の用途のために設計して作られたものではなくて、官能があって後にその用が生まれるものであると言って、目的論的自然観に反対する所論のある事を注意しておきたい。
巻末に性
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