私は今ここでそういう岐路に立ち入るべきではない。ただルクレチウスの筆法を紹介すればよい。
今日の科学の方法に照らして見れば、彼が「無より有は生じない」という宣言は、要するに彼の前提であり作業仮説であると見られる。もっとも、無から有ができるとすれば、ある母体からちがった子が生まれるはずだといったような議論はしているが、これらは決して証明ではあり得ない事は明らかである。さて、有から有が生じるとすれば、そこに有の種子を仮定する必要を生じて来るのであるが、この種子の考え方においてエピキュリアンはその先輩同輩に対して実に比較にならぬほど進歩している、あるいはむしろ現代の原子観に肉薄した考え方をしている。これも厳密な推理から得た結果ではなくて、結局は直観で透視したものであろう。ルクレチウスは正直な態度で Thus easier 'tis[#「Thus easier 'tis」の部分はイタリック体] to hold that many things have primal bodies in common(as we see the single letters common to many words)than aught exists without its origin. と言っている。そしてここに述べられたアルファベットが寄り集まっていろいろな語を作るように、若干の異種の原子がいろいろに結合していろいろのものを作るという彼の考えはほとんど現在の考え方と同様である。のみならずおもしろい事には現在われわれは原子の符号にアルファベットを用い、しかもまたいろいろの物質をこれら符号の組み合わせで表わすのである。これは全然ルクレチウスの直伝である。
そういう元子を人間が目で見る事ができないからといって、その実在を疑ってはいけない。たとえば、風は目に見えないけれどもあらゆる作用をするではないかと論じている。すなわち作用によって物理的実在を規定するのである。この数行を読んで私は十九世紀末に行なわれた原子の実在に関するはげしい論争を思い浮かべざるを得なかった。また物理学における「アンスロポモーフィズムからの解放」を唱えたプランク一派の主張や、また一方最近に至って、直接可測的のもの以外の実在性を否定しようとする新素量力学の先駆者らの叫びを思いくらべて、いかにこの問題が古いものであるかを知り得たのである。
目に見えぬ実在の他の例としては彼はなお、香気や湿気などをあげている。また物体の磨滅《まめつ》の現象からも、目に見えぬ微小部分が存するゆえんが引証されている。
元子によって自然を説明しようとするのに、第一に必要となって来るものは空間である。彼はわれわれの空間を「空虚」(void)と名づけた。「空間がなければ物は動けない」のである。彼の空間は真の空虚であってエーテルのごときものでない。この点もむしろ近代的であると言われよう。
物質原子の空間における配置と運動によってすべての物理的化学的現象を説明せんとするのが実に近代の少なくも十九世紀末までの物理学の理想であった。そうして二十世紀の初めに至るまでこの原子と空間に関するわれわれの考えはルクレチウスの考えから、本質的にはおそらく一歩も進んでいないものであった。近年に至って原子は電子とプロトーンによって置き換えられ、ごくごく最近に波動力学の出現によってこれら物質的素量に関する観念に始めて目立った変化をきたしつつある。また一方相対性理論の発展によって、いわゆる空間に属する考えもまたこの素朴《そぼく》な状態を離れて来たのである。しかし現在においても普通の大多数の具体的の問題は依然として昔のままの空間および原子で間に合っているのである。
さて、次に、物質は原子と空虚の混合であるという考えから物の有孔性や、比重の差違の生じる事を述べている。音響もまた原子の発散によるものと考えるから、音が壁を通過するのも壁の原子間に空隙《くうげき》があるからだと言って説明している。これは今の学生の答案として見れば誤謬《ごびゅう》である。しかし実際壁の元子間に空隙《くうげき》が少しもなく、従って完全剛体であったら、音のエネルギーは通過し得ないであろう。そういう意味ではこれもやはりほんとうである。ルクレチウスはその次に水中における魚の運動や、また物体の衝突反発の例をあげて空虚の説明に用いているが、この解説は遺憾ながら今の言葉に翻訳し難いように見える。
次には、空間と物質とが「それ自身に存在する」ただ二つのものであって、それ以外に第三のものはないという事を宣言している。その意味はすでに前述のごとく器械的力学的自然観の基礎として現代に保存されたものと同義である。これは物の作用や性質やまでも物体視せんとするストア派の学者に対する手ごわい
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