Nレチウスと私の呼ぶものは、必ずしもローマの詩人ルクレチウス・カールスをさすのではなくて、かの書に示された学説の代表者を抽象してそれをさすものである事を承知した上で以下の解説を読んでもらいたいと思うのである。
一
ルクレチウスの第一編は女神ヴィナスに呼びかけた祈りの言葉で始まっている。これはあらゆる神と宗教とを無視し否定せんとする彼にふさわしからぬようであるが、実はこの彼のヴィナスは「自然」とその「生成の方則」をさしているように思われる。そう思って読むと彼の言葉が生きて来るようである。それからヴィナスに訴えて、どうかその愛人たる軍神マルスが、自分のこの詩を書く邪魔をしないように心配してくれと頼んでいる。これもシーザーやポンペイの活躍していた恐怖時代のローマの片すみで静かに科学の揺籃《ようらん》をつづっていたこの人の心境をうかがわせるに足るのである。
要するにこの冒頭は詩編の形式を踏襲するために置かれた装飾のようであるが、これもまた彼の全巻をおおう情調の前奏曲として見るとおもしろいのである。
次に名はさしてないがロイキッポスあるいはエピクロスの礼賛《らいさん》の言葉が出て来る。そしてこのギリシアの賢人が宗教の抑圧のために理知の光をおおわれていた人類に始めて物の成立とその方則を明示した功績をたたえている。そうして今自分がこのギリシア人の発見した真理の教えを伝えんとするに当たって、自分の母語ラテンがあまりに貧しいものであるとこぼしている。しかしせいぜい骨折って「物の中心の隠れた心核を見るためのかなたよりの光」を伝え、物の最初の胚芽《はいが》たる元子について物語ろうというのである。
そういう事を自分が論ずるのは神を冒涜《ぼうとく》するものと思われるかもしれない。しかしそれよりももっと冒涜的な事をしばしば犯すものは実は宗教自身である。そう言って、イフィゲニアの犠牲の悲惨な例をあげ、犠牲の罪悪である事、その罪悪を犯させるものはすなわち宗教である事、そういう事になるのは畢竟《ひっきょう》人間が死を恐れるためであるが、死が何物であるかをほんとうによく知りさえすれば、そんな恐怖もなくなり、従って宗教が罪を犯す事もなくなる。こう言って後に論ぜんとする霊魂非不滅論の伏線をおいている。わずかにこれだけ読んでも彼がいかにはえ抜きの徹底した自然科学者であるかがわかっておもしろい。現代の職業的科学者のうちには科学者の着物を着た迷信家がたくさんあるのに、二十世紀前に生まれて、エレクトロンの何であるかも知らなかったローマの詩人に、この徹底した科学者魂を発見するのはいささか皮肉である。
そうして彼は次の数句を歌う。
[#ここから3字下げ]
This terror, then, this darkness of the mind,
Not sunrise with its flaring spokes of light,
Nor glittering arrows of morning can disperse,
But only Nature's aspect and her law,
[#ここで字下げ終わり]
この句は後にもしばしばリフレインとして繰り返さるる。私はこの四句をどこかの科学研究所の喫煙室の壁にでも記銘しておいてふさわしいものであると思う。
この次の二句は
[#ここから3字下げ]
Which, teaching us, hath this exordium:
Nothing from nothing ever yet was born.[#「Nothing from nothing ever yet was born」の部分はイタリック体]
[#ここで字下げ終わり]
迷信から来る精神の不安を除くべき魔よけの護符はすなわち「物質不滅の方則」である、というのである。もちろん彼は彼の物質元子論から出発して、結局それから霊魂の可死を論ぜんとするのではあるが、彼のここに言うエキソルディアムは、おそらくもう少し一般化して「自然科学的世界観」をさすものと解釈しても、たぶん彼の真意を離れる恐れはあるまいと考えるのである。
現在の物理学における物質不滅則、原子の実在はだれも信ずるごとく実験によって帰納的に確かめられたものである。二千年前のルクレチウスの用いた方法はこれとはちがう。彼はただ目を眠りふところ手をして考えただけであった。それにかかわらず彼の考えが後代の学者の長い間の非常の労力の結果によって、だいたいにおいて確かめられた。これははたして偶然であろうか。私はここに物理学なるものの認識論的の意義についてきわめて重要な問題に逢着《ほうちゃく》する。約言すれば物理学その他物理的科学の系統はユニークであるや否やということである。しかし
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