る。しかし私のここで問題とするところは、現代の精密科学にとってルクレチウスの内容もしくはその思想精神がなんらかの役に立ちうるかということである。ルクレチウスの内容そのものよりはむしろ、ルクレチウス流の方法や精神が現在の科学の追究に有用であるかどうかということである。
科学上ではなんらかの画紀元的の進展を与えた新しい観念や学説がほとんど皆すぐれた頭脳の直観に基づくものであるという事は今さらに贅言《ぜいげん》を要しない事であるにかかわらず、昔も今も通有な一種の偏狭なアカデミックの学風は、無差別的に直観そのものを軽んじあるいは避忌するような傾向を生じている。これは日本やドイツばかりには限らないと見えて米国の学者でこの事を痛切に論じたものもあった(4)[#「(4)」は注釈番号]。これは科学にとって自殺的な偏見である。近代物理学に新紀元を画した相対的原理にしても、素量力学や波動力学にしても、直観なしの推理や解析だけで組み立てられると考える事がどうしてできよう。私はアインシュタインやド・ブローリーがルクレチウスを読んだであろうとまでは思わないが、彼らの仕事に最初の衝動を与え幾度か行き詰まりがちの考えに常に新しい活路を与えたのは、私に言わせれば彼らの頭の中にいるルクレチウスのしわざである。決して彼らの図書室に満載された中のどの物理学書でもないのである。
しかし何もアインシュタインやブローリーらのごとき第一流の大家だけには限らない。ほとんどいかなる理論的あるいは実験的の仕事でも、少しでも独創的と名のつく仕事が全然直観なしにできようとは到底考えられない。「見当をつける」ことなしに何事が始め得られよう。「かぐ」ことなしにはいかなる実験も一歩も進捗《しんちょく》することはあり得ない。うそだと思う人があらば世界の学界を一目でも見ればわかることである。
ケルヴィンやマクスウェルがルクレチウスを読んだのはなんのためであるかはよくわからない。しかし彼らがこの書の中に彼らに親しい何物かを感じたには相違ないと想像される。実際ルクレチウスに現われた科学者魂といったようなものにはそれだけでも近代の科学者の肺腑《はいふ》に強い共鳴を感じさせないではおかないものがある。のみならず、たとえ具体的にはいかに現在の科学と齟齬《そご》しても、考えの方向において多くの場合にねらいをはずれていないこの書物の内容からいかに多くの暗示が得られるであろうかという事はだれでも自然に思い及ばないわけには行かないであろう。
原子素量の存在、その結合による物質の構成機巧、物質総量の不滅、原子の運動衝突と物性の関係、そういうようなものが予想されているばかりでなく、見方によっては電子のようなものも考えられており、分子《ぶんし》格子《こうし》のごときものも考えられている。またおそらくニウトンが直接あるいは間接に受けついだと思われる光微粒子説でも一時全く忘れられていたのが、最近にまた新しい形で復活して来たのは著しい事である。また彼が生物の母体から子孫に伝わると考えた遺伝の元子のようなものが近代の生物学者の考える遺伝素といかによく似たものであるか。そういう事を考えてみる。十九世紀二十世紀を予言した彼がどうしてきたるべき第二十一世紀を予言していないと保証する事ができようか。今われわれがルクレチウスを読んで一笑に付し去るような考えが、百年の後に新たな意味で復活しないとだれが断言しうるであろうか。
私は自分の頭になんらの「考え」をもたない科学者がかりにあるとして、そういう人がルクレチウスを百ぺん読んでもなんの役にも立とうと思わない。女学校上がりの若い細君が料理法の書物を読むような気でこの詩編のすみずみまで捜したところで、すぐ昼食の間に合いそうな材料は到底見つからない。そういう目的ならば、ざらにある安い職業的料理書を見て、完全なる総菜料理を捜したほうがいいのである。
しかし多くの科学の探究者はそれでは飽き足らないであろう。その当代のその科学の前線まで進んで来て、そこでなんらかの自分の仕事をしようとしている人たちは、眼前の闇黒《あんこく》な霧の中にある何物かの影を認めようとあせっているのである。そうしてその闇《やみ》の底に何かしら名状のできない動くものの影か幻のようなものを認めるように思う。しかしそれが何であるかははっきりわからない。そういう状態が続いているうちに突然天の一方から稲妻のような光がひらめいて瞬間に眼前のものの正体が見える。それからいよいよその目的物を確実につかむまでにはもちろん石橋をたたいてそこまで歩いて行かなければならない。行ってみると、それは実体のない幻影であって失望する事ももちろん往々ある。しかしこの天来の閃光《せんこう》なしには彼らは一歩も踏み出す事はできない。
今もしルクレ
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