ラジオ雑感
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)宅《うち》のラジオ受信機は
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)郊外の某|旗亭《きてい》へ行って
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和八年四月、日本放送協会『調査時報』)
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宅《うち》のラジオ受信機は去年の七月からかれこれ半年ほどの間絶対沈黙の状態に陥ったままで、茶の間の茶箪笥《ちゃだんす》の上に乗っかったきりになっていた。夕飯時に近所の家から「子供の時間」の唱歌などが聞こえて来ても、宅の機械は固く沈黙を守って冷やかにわれわれの食卓を見下ろしているだけであった。それがやっとこの頃になって久し振りのその沈黙を破って再び元気よくわれわれに話しかけることになった。
事の顛末を記録するためには先ずわが家のラジオの歴史を略記する必要がある。
東京で一般的放送が開始されて後も、しばらくの間は全く他所事《よそごと》のように何の興味も感じなかったので、自宅へ受信機を備えるどころか、他所のでちょっと聞いてみようという気も起らなかった。もっとも、それよりもよほど前に、どこかの実験室でのデモンストラチオンを一度経験していたから、「初物」に対する好奇心だけは既に満足されていたのである。なにしろ明治四十四年まで電燈を引かないで石油ランプを点《とも》していたほど不精な自分なのである。
ある日偶然上野の精養軒の待合室で初めてJOAKの放送を聞いたが、その拡声器の発する音は実に恐るべき辟易《へきえき》すべきものであった。そのためになおさら自分のラジオに対する興味は減殺されたようであった。ところが、ある夏の日に友人と二人で郊外の某|旗亭《きてい》へ行ってそこで半日寝ころがって蜩《ひぐらし》の声を聞きながら俳諧三昧をやった。日が暮れて帰ろうとしていたら階下で音楽が始まった。ラジオの放送音楽である。聞いてみるとそれはハイドンのトリオであった。こんな閑寂な武蔵野の片隅で、こういうものを聞くということが何となく面白かった。蜩の声を聞きながら俳諧に遊んだあとでは、なおさらそうであった。とにかく、この夏の夜の武蔵野で聞いたトリオ以来、ラジオに対する恐怖に似た心持だけは消えてしまったようである。それで宅で受信機設置の議が起った時は別に反対しなかった。
某百貨店でトリルダインと称する機械を買って来て据付けた最初の日の夕食時に聞いたのは、伴奏入りの童話で「蟻《あり》と蟋蟀《きりぎりす》」の話であった。食糧を貯蔵しなかった怠け者の蟋蟀が木枯しの夜に死んで行くというのが大団円であったが、擬音の淋しい風音に交じって、かすかなバイオリンの哀音を聞かせるのが割に綺麗に聞きとれるので、これくらいならと思って安心したのであった。
色々な種類の放送のうちで自分にいちばん苦手なのは演説講演の類である。耳が悪いせいか、「かん」が悪いせいか、本物の演説を聞くのでも骨の折れるくらいであるから、完全でない機械で変形された音波の混乱の中から、変形されない元の波を読取ることはなかなか困難である。それを聞取ろうとする努力はかなりに頭を疲らせる。それで断念して聞かないつもりになっても、音の出ている限り注意を引かれない訳には行かない。いっその事全部分からないアラビア語ででもあればかえって楽であろうが、困った事には時々ところどころ分かる日本語であるからいけないのである。注意が自然と其方《そっち》に向かうのを引戻し引戻しするための努力の方が、努めて聞こうとする場合の努力よりもさらに大きいかもしれない。
しかるに、これが音楽となるとそういう心配はないようである。楽器の音色《ねいろ》がかなり違って聞こえても、管弦楽はやはり管弦楽として聞取られるし、長唄はやはり長唄として聞かれる。聞きたくなければ聞流している事も音楽ならばそれほど困難ではない。これは自分が音楽に対して素人《しろうと》であって、日本語に対して玄人《くろうと》であるためかもしれない。しかしまた人間の言語というものがあらゆる音響現象のうちで最も精妙を極めた機巧を具備したものだという事を意味するかもしれない。音楽の方はかなりまで好い加減に色々に変化させても、やはり同じものとして認め得られるが、人間の言語はそれがただほんのごくわずかでも変形すればもはや全然別のものに変って識別出来なくなってしまうのである。
それはとにかく、講演でも自分のよく知っていて始終互いに談話を交わしている人の講演ならば、あまり言語明晰でない人のでもよく分かるような気がする。そういう場合には話している人の「顔が見える」。そうしてそれが音の不完全を助けて理解を容易にするように思われる。「話し振り」をよく知っているという事は、
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