単に音響だけの記憶を意味するのではなくて、話す人の顔面筋肉のあらゆる微細な運動の視像と一つ一つの言語と結び付いたものの綜合的記憶を意味するのであろう。少なくも盲目でない普通の人にとってはそうである。それでラジオで耳馴れた人の声を聞くと、その声が直ちにその人の顔の視像を呼出して来て合体する。そこで始めてその言葉の意味が明らかになるのであろうと思われる。日常接している人だと、いちばん最初に咽喉《のど》を掃除するための「エー」という発声を聞いただけで話し手の顔がありありと面前に出現するのは全く不思議である。
これと同じような聯想作用に関係しているためかと思われるのは、例えば落語とか浪花節《なにわぶし》とかを宅のラジオで聞くと、それがなんとなくはなはだ不自然な、あるまじきものに聞こえて困ることである。それらの演芸の声だけでなくて演芸者自身がその声にくっついて忽然として自分の家庭に侵入して来るように感じる。そういう人達が突然自分の家の茶の間へ飛込んで来て、遠慮もなく大声を揚げて怒鳴っているような気がしてはなはだ不自然な感じがするのである。しかししばらく我慢して聞いていると、そういう感じはいつの間にか消滅して、今度は自分の方が寄席《よせ》の方へ「行ってしまう」から、そうなればもう不自然な感じはなくなってしまうのである。しかし家庭の日常生活の中へ突然に、全く不連続的にそういう異分子が飛込んで来るときに、われわれはやはりそういうちぐはぐを感じない訳には行かないであろう。もっとも従来|蓄音機《ちくおんき》などで始終こういうものに馴れていれば何でもないであろうが、自分の場合はそうでもなく、またラジオでそういうものを聞く回数がきわめて稀なためであるに相違ない。これが西洋音楽だとちっともそういう気持はしないのである。
聞きたいと思う音楽放送がたまにあると、その時刻にちょうど来客があって聞かれないような場合がかなりに多い。来客がない時はまた何かに紛れて時刻をやり過ごし、結局聞かれない場合もかなりに多い。もしも、これが、どこかへ演奏会を聴きに行くのだと、来客は断れるし、仕事は繰合せて、そうして定刻前には何度も時計を見るであろう。しかしこれがラジオであるために、こういうことになるのである。つまりあまりに事柄が軽便すぎて事柄の重大さがなくなるのであろう。パチリと一つスウィッチを入れさえすれば、日比谷公会堂の演奏、歌舞伎座の演技が聞かれるからである。昔の山の手の住民が浅草の芝居を見に行くために前夜から徹夜で支度して夜のうちに出かけて行った話と比較してみるとあまりにも大きな時代の推移である。しかしそういう昔の人の感じた面白さと、今のラジオを聞く人の面白さとの比較はどうなるかそれは分からない。
同じようなことは外にもある。教育でも機関が不完全で不便な時代に存外真剣な勉強家が多くて、あまりに軽便に勉強の出来る時代にはまた存外その割に怠け者が多いようなものである。キリシタンを禁じた時代の宗教の熱心さと、信仰の自由を許されて後の信徒の熱心さとの比較でもそうである。自由を許したとて、信徒の数にしても決してそう驚くほど多くはならないのである。
こういう意味からすると、ラジオが出来たためにわれわれの音楽を聴くことの享楽をいくぶん破壊されたとも云われるかもしれない。教育機関の立派になったお蔭でわれわれは学問することの法悦《ほうえつ》を奪われたというと同じ逆説的な申分ではあるが、いくらかそういう感じがなくはないであろう。
以上のような理由からして、自分と自分の宅のラジオとの交渉はかなり疎遠なものであった。それで時々故障が起っても、別に大した不便を感じないのであるが、それでもやはりその時々に修繕のために元買った百貨店へ持って行った。それが修繕する度に眼に見えて機械の感度が悪くなるのであった。それでいつか放送局でラジオ相談所として推薦した本郷の某ラジオ屋へ試みに修繕に出したら、今度は断然|桁《けた》ちがいに感度を低下してしまって、もう拡声器では聞かれなくて、テレフォンでやっと聞こえるようになってしまった。機械を調べてみると、何とかいうあの蜘蛛の網《い》の形をした捲線《まきせん》が新しく取換えられてあるのである。使いをやって元の古い捲線を返してくれと云ってやったら、「あれは捨ててしまった」と云って、そうして何故かひどく不機嫌であったそうで、使いの者はほうほうの体で帰って来た。
それからまた元の百貨店へ持って行くと、やがて、完全になったと云って返して来る。やってみると、あいかわらずちっとも聞こえない。
この事柄の理由は明白である。元の機械は相当感度がよかったために、アンテナはわずかに二メートルくらいの線を鴨居《かもい》の電話線に並行させただけで、地中線も何もなしに十分であっ
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