ジオやアンダンテはあってもアレグロがなく、表情にもフォルチシモがなく、そうかと云ってピアニシモもなかった。
 ウィンナ舞踊はそういう意味では一番「音楽的」であったかもしれない。テンポにもエキスプレションにも少なくも理論的には相当な振幅《アンプリチュード》はあった。ただ惜しいことには至芸にのみ望み得られる強い衝動が欠けていた。アメリカン・レビューにはそういう古典的な意味での音楽などはない代りに、オリンピックのグラウンドや拳闘のリンクに見らるる活力の鼓動と本能の羽搏《はばた》きのようなものをいくらかでも感ずることが出来るのであった。
 それほどにも国々の国民性がこんな演芸の末にまで現れるというのは面白いよりはむしろ恐ろしいことであろう。
 連句をお休みにしてその代りにレビューを見物しながら、この二つの芸術の比較といったようなことを考えてみた。両方に共通な点も色々ある。しかしそういう共通点だけから見ると、連句の方はレビューとは比較にならぬほど洗煉されたものである。連句では一景から次の景またその次の景への推移と連絡の必然性によって呼び出される暗示の世界に興味の大半がつながれているが、レビューではそういう連鎖の必然性はほとんど閑却されているようである。それ故に、連句三十六景のコンチニュイティは容易に暗記が出来るが、レビューの二十八景の順序は到底覚えられそうもないのである。ともかくもこの二つのものの比較は色々の暗示の光を与える。一方では連句的レビューの可能性が示唆され、他方ではまたアメリカン・レビュー的連句の開拓も展望される。
 筋の通った劇よりも、筋はなくて刺戟と衝動を盛り合わせたレビューの流行《はや》る現代に、同じような傾向が色々の他の方面にも見られるのは当然のことかもしれない。それについて先ず何よりも先に思い当るのは現代の教育のプログラムである。
 習字と漢籍の素読《そどく》と武芸とだけで固めた吾等の父祖の教育の膳立ては、ともかくも一つのイデオロギーに統一された、筋の通り切ったものであった。明治大正を経た昭和時代の教育のプログラムはそれに比べてたしかにレビュー式である。盛り沢山の刺戟はあるが、あとへ残る纏《まと》まった印象はややもすれば甚だ稀薄である。
 単に普通教育、中等教育の内容全体がそうであるのみならず、その中のある一つの科目の教科書がまたそれぞれにレビュー式である
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