。読本《とくほん》をあけて見る。ありとあらゆる作者のあらゆる文体の見本が百貨店の飾棚のごとく並べられてある。今の生徒は『徒然草《つれづれぐさ》』や『大鏡』などをぶっ通しに読まされた時代の「こく」のある退屈さを知らない代りに、頭に沁みる何物も得られないかもしれない。
自分等が商売がら何よりも眼につくのは物理学の中等教科書の内容である。限られた紙幅の中に規定されただけの項目を盛り込まなければならないという必要からではあろうが、実にごたごたとよく色々のことが鮨詰《すしづめ》になっている。一頁の中に三つも四つもの器械の絵があったりする。見ただけで頭がくらくらしそうである。そうしてそれらの挿図の説明はというとほとんど空っぽである。全く挿図のレビューである。そのうちの一つだけにして他は割愛して、その代りその一つをもう少し詳しく分かるように説明した方が本当の「物理」を教えるためには有効でありそうに思われる。それからまた、近頃の教科書には本文とは大した関係のない併《しか》し見た眼に綺麗なような色々の図版を入れることが流行《はや》るようである。これも一体「物理」とどんな関係があるのか少なくも本文をよんだだけではちっとも分からない。
汽車弁当というものがある。折詰の飯に添えた副食物が、色々ごたごたと色取りを取り合せ、動物質植物質、脂肪蛋白|澱粉《でんぷん》、甘酸辛鹹《かんさんしんかん》、という風にプログラム的に編成されているが、どれもこれもちょっぴりで、しかもどれを食ってもまずくて、からだのたしになりそうなものは一つもない。
物理の教科書を見るたびに何となくこの汽車弁当を思い出すのであったが、今度レビューを見学してからレビューと教科書の対照を考えさせられるような機会に接した。
多くのレビューでは、見ている間だけ面白くて、見てしまったあとでは綺麗に忘れてしまうのがむしろその長所であり狙い所ではないかと思うが、物理やその他の科学の教科書はそれでは困りはしないか。
三つのものを一つに減らしてもその中の一番根本的な一つをみっしりよく理解し呑込んでしまえば、残りの二つはひとりでに分かるというのが基礎的科学の本来の面目である。そうでなくても一つのものをよく玩味《がんみ》してその旨《うま》さが分かれば他のものへの食慾はおのずから誘発されるのである。沢山に並べた栗のいがばかりしゃぶらせるよ
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