った二十余年の今日の嵐の東京でアメリカ名物マーカス・ショーを見ようというのである。
 この興行には添えものの映画を別にして正味二、三時間の間に三十に近い「景」が展開される。一景平均五分程度という急速なテンポで休止なしに次から次へと演ぜられる舞台や茶番や力技は、それ自身にはほとんど何の意味もないようなものでありながらともかくも観客をおしまいまであまり退屈させないで引きずって行くから不思議なものである。
 昔見たベルリンやパリのレビューの印象に比べてこのアメリカのレビューの著しくちがうと思った点は、この現在のアメリカのものの方が一層徹底的に無意味で、そのために却ってさっぱりしていて嫌味が少ないことと、それからもう一つは優美とか典雅とかいう古典的要素の一切を蹴飛ばしてしまって、旺盛な生活力を一杯に舞台の上に横溢《おういつ》させていることとであろうと思われた。ある意味では野蛮でブルータルであると同時に一方ではまた新鮮で明朗で逞《たくま》しい美しさがないとは云われない。
 踊る人間の肉体の立派さは神の作った芸術でこれだけはどうにもしようがない。特にあのアラビア人のような名前のついた一団の自由自在に跳躍する翻筋斗《とんぼがえり》の一景などは見るだけで老人を若返らせるようなものである。見るものは芸ではなくして活きる力である。
 踊る女の髪の毛のいろいろまちまちなのが当り前だがわれわれ日本人の眼には不思議である。近頃は日本人の顔がだんだんに西洋人に似てくるようで、銀座などを歩いているとあちらの映画スターに似たような顔つきをした男女を見かけることも珍しくないがただ髪の毛だけは、当り前のことだが皆申し合せたように真黒である。しかし、日本人の日常生活がだんだん西洋人のに近くなって一世紀二世紀と経つうちには髪の色もだんだん明るくなって行かないとも限らないであろう。
 呼び物の「金色の女」はなるほどどうしても血の通っている人間とは思われなくて、金属の彫像が動いているとしか思われない。あんなものを全身に塗っては健康によくないであろうと思うとあまり好い気持はしなかった。塗料が舞台の板に附くかと思って気をつけて二階から見ていたがそんな風には見えなかった。
 どこかの山中の嶮崖《けんがい》を通る鉄道線路の夜景を見せ、最後に機関車が観客席に向かって驀進《ばくしん》するという甚だ物々しいふれだしのあった
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