ではあるが。
九
今朝五時頃に眼が覚めて床の上でうとうとしているとき妙なことを思い出した。子供の時分に姉の家に庫次という眇目《すがめ》の年取った下男《げなん》が居た。それがある時台所で出入りの魚屋と世間話をしながら、刺身包丁を取り上げて魚屋の盤台の鰹《かつお》の片身から幅二分くらい長さ一尺近い細長い肉片を巧みにそぎ取った。そうしてその一端を指でつまんで高く空中に吊り下げた真下へ仰向《あおむ》いた自身の口をもって行って、見る間にぺろぺろと喰ってしまって、そうしてさもうまそうに舌鼓をつづけ打った。その時の庫次|爺《じい》の顔を四十余年後の今朝ありありと思い浮べたのである。どうしてそんなことを想い出したかが分からない。その直前にどんなことを考えていたかと思って聊《いささ》か覚束《おぼつか》ない寝覚めの記憶を逆に追跡したが、どうもその前の連鎖が見付からない。しかし、その少し前にこの夏泊った沓掛《くつかけ》の温泉宿の池に居る家鴨《あひる》が大きな芋虫を丸呑みにしたことを想い出していた。それ以外にはどうしてもそれらしい聯想の鎖も見付からないのである。青い芋虫と真紅の肉片、家
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