「まじょりか」に傍点]皿を買おうと思い立ったのは久しい前の事である。いつか同郷の先輩の書斎で美しい絵のついた長方形の浅いペン皿を見た事がある。その時これがまじょりか[#「まじょりか」に傍点]といって安くないものだと教えられた。その後この文房具店で同じような色々の皿を見付けて一つ欲しいと思い立ったが、今日まで機会がなかったのである。今夜買ったのは半月形で蒼海原に帆を孕《はら》んだ三本|檣《マスト》の巨船の絵である。夕日を受けた帆は柔らかい卵子色をしている。海と空の深い透明な色を見ていると、何かしら遠いゆかしいような想いがするのを喜んで買った。
欲しいと思った皿を買ったのは愉快であるが、電車のゆれるにつれて腹の奥底の方に何処か不安なような念が動いていた。竹村君は郷里に年老いた貧しい母を残してある事を想い出したのである。五円で皿を買っても暮の払いには困らぬ。下宿や洗濯屋の払いを済ませても二十円あれば足りる。今年は例年の事を思えば楽な暮であるが、去年や一昨年の苦しかった暮には、却《かえ》って覚えなかった一種の不安と淋しさを覚えて、膝の上のまじょりか[#「まじょりか」に傍点]皿と、老い増さる母
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