来が織るような街の両側の人道の並木の下には手を組んだ男女の群が楽しそうに通っている。覘いている竹村君の後ろをジャン/\と電車が喧しい音を立てて行くと、切るような凩《こがらし》が外套の裾をあおる。隣りの文房具店の前へ来るとしばらく店口の飾りを眺めていたが戸を押し開けてはいって行った。眩しいような瓦斯燈《ガスとう》の下に所狭く並べた絵具や手帳や封筒が美しい。水色の壁に立てけけた真白な石膏細工の上にパレットが懸って布細工の橄欖《かんらん》の葉が挿してある。隅の方で小僧が二人掛け合いで真似事の英語を饒舌《しゃべ》っている。竹村君は前屈みになって硝子《ガラス》箱の中に並べたまじょりか[#「まじょりか」に傍点]皿をあれかこれかと物色しているが、頭の上の瓦斯の光は薄汚い鼠色の襟巻を隠す所もなく照らしている。元気よく小僧を呼んで、手に取り上げた一枚の皿と五円札とをつき出すと、小僧は有難うといって竹村君の顔をじろじろ見た。竹村君は小僧が皿を包むのをもどかしそうに待っていたが、包を受取ると急いで表へ飛び出した。そうして側目《わきめ》も振らずにいきなり電車へ飛び込んでしまった。
 竹村君がこのまじょりか[#「まじょりか」に傍点]皿を買おうと思い立ったのは久しい前の事である。いつか同郷の先輩の書斎で美しい絵のついた長方形の浅いペン皿を見た事がある。その時これがまじょりか[#「まじょりか」に傍点]といって安くないものだと教えられた。その後この文房具店で同じような色々の皿を見付けて一つ欲しいと思い立ったが、今日まで機会がなかったのである。今夜買ったのは半月形で蒼海原に帆を孕《はら》んだ三本|檣《マスト》の巨船の絵である。夕日を受けた帆は柔らかい卵子色をしている。海と空の深い透明な色を見ていると、何かしら遠いゆかしいような想いがするのを喜んで買った。
 欲しいと思った皿を買ったのは愉快であるが、電車のゆれるにつれて腹の奥底の方に何処か不安なような念が動いていた。竹村君は郷里に年老いた貧しい母を残してある事を想い出したのである。五円で皿を買っても暮の払いには困らぬ。下宿や洗濯屋の払いを済ませても二十円あれば足りる。今年は例年の事を思えば楽な暮であるが、去年や一昨年の苦しかった暮には、却《かえ》って覚えなかった一種の不安と淋しさを覚えて、膝の上のまじょりか[#「まじょりか」に傍点]皿と、老い増さる母
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