の顔とを思い比べた。四丁目で電車を下りると皿の包を脇の下へ抱えてみたが工合が悪い。外套の隠しへねじ込むと蜜柑がつかえるから、また片手でしっかりさげて歩き出した。木枯しが森川町の方から大学の前を渦巻いて来る度に、店ごとの瓦斯燈が寒そうに溜息をする。竹村君はこの空《か》ら風《かぜ》の中を突兀《とつこつ》として、忙しそうな往来の人を眺めて歩く。知らぬ人ばかりである。忙しい世間は竹村君には用はない。何かなしに神田で覘いてみた眼鏡の中の大通りを思い浮べて、異郷の巷《ちまた》を歩くような思いがする。高等学校の横を廻る時に振返ってみると本郷通りの夜は黄色い光に包まれて、その底に歳暮の世界が動揺している。弥生町《やよいちょう》へ一歩踏込むと急に真暗で何も見えぬ。この闇の中を夢のように歩いていると、暗い中に今夜見た光景が幻影となって浮き出る。まじょりか[#「まじょりか」に傍点]の帆船が現われて蒼い海を果もなく帆かけて行く。海にも空にも船にも歳は暮れかかっている。逝く年のあらゆる想いを乗せて音もなく波を辷《すべ》って行く。船には竹村君も小さくなって乗っている。紙屋の娘も水々しい島田で乗っている。淋しそうな老母の顔も見える。黙ってじっとしている人々の顔にも年が暮れかかっている。
 竹村君は片手の皿の包を胸に引きしめるようにして歩いていたが、突然口の中で「三百円もあるといいなあ」と呟《つぶや》いた。[#地から1字上げ](明治四十二年一月『ホトトギス』)



底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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