が洋行する話や、桜井が内務省の参事官で幅を利かせているような話が出ると竹村君は気の乗らぬ返辞をしてふっと話題を転ずるのであった。
 今日も夕刻から神楽坂へ廻って、紙屋の店で暮の街の往来を眺めていた。店の出入りは忙しそうであったが、主人は相変らず落着いて相手になっていた。兵隊が幾組も通る。「兵隊も呑気《のんき》でいいなあ」と竹村君が云うと「あなた方も気楽でしょう」といってにやにやした。竹村君は「そうさなあ、まあ兵隊のようなものだろう」といって笑った。彼は中学校を出るとすぐに生真面目な紙屋の旦那になっている主人と、自分のような人間との境遇の著しい違いを思い較べていた。そこへ外から此処《ここ》の娘が珍しく髪を島田に上げて薄化粧をして車で帰って来た。見かえるように美しい。いつになく少しはにかんだような笑顔を見せて軽く会釈《えしゃく》しながらいそいそ奥へはいった。竹村君は外套の襟の中で首をすくめて、手持無沙汰な顔をして娘の脱ぎ捨てた下駄の派手な鼻緒を見つめていたが、店の時計が鳴り出すと急に店を出た。
 神田の本屋へ廻って原稿料の三十円を受取った。手を切りそうな五円札を一重ねに折りかえして銅貨と一緒に財布へ押しこんだのを懐《ふところ》に入れて、神保町《じんぼうちょう》から小川町《おがわまち》をしばらくあちこち歩いていた。美しさを競うて飾り立てた店先を軒ごとに覗き込んでいた。竹村君はこうして店先を覗くのが一つの楽しみである。ことに懐に金のある時にそうである。陰気な根津辺に燻《くす》ぶっていて、時たま此処らの明るい町の明るい店先へ立つと全く別世界へ出たような心持になって何となく愉快である。時計屋だの洋物店の硝子窓《ガラスまど》を子供のようにのぞいて歩いた。呉服屋には美しい帯が飾ってあった。今日ちらと見た紙屋の娘の帯に似ている。正札を見ると百二十円とあった。絵葉書屋へはいったら一面に散らした新年のカードの中には売れ残りのクリスマスカードもあった。誰に贈るあてもないが一枚を五十銭で買った。水菓子屋の目さめるような店先で立止って足許の甘藍《かんらん》を摘《つま》んでみたりしていたが、とうとう蜜柑を四つばかり買って外套の隠しを膨《ふく》らませた。眼鏡屋の店先へ来ると覘《のぞ》き眼鏡があって婆さんが一人覘いている。此方のレンズを覘いてみると西洋の美しい街の大通りが浮き上がって見える。馬車の往
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