が、いつでも失望するにきまっていた。
根津《ねづ》辺の汚い下宿屋で極めて不規則な生活を送っている。一日何もしないで煙草ばかり吹かして寝たり起きたり四畳半に転がっている事もあれば、朝から出かけて夜の二時頃まで帰らぬ事がある。そうかと思うと二、三日風呂にも行かず夜更《よふけ》まで机へすがったきりでコツコツ何か書いたり読んだりする。そんな時はいかにも苦しそうな溜息ばかりして何遍となく便所へはいって大きな欠伸《あくび》をする癖がある。朝は大概寝坊をして、これがために昼飯を抜きにする事があるが、その代りに夜の十時頃から近所の牛肉屋へ上がって腹一杯に食う事も珍しくない。一体に食う方にかけては贅沢で、金のある時には洋食だ鰻《うなぎ》だとむやみに多量に取寄せて独りで食ってしまうが、身なりはいつでも見窶《みすぼ》らしい風をして、床屋へ行くのは極めて稀である。それでも机の抽斗《ひきだし》には小さな鏡が入れてあって、時によると一時間もランプの下で鏡を睨《にら》めている事がある。風采はあまり上がらぬ方である。酒を飲まぬ事と一度も外で泊った事のないのを下宿の主婦が感心していた。友達というものはほとんどない。ただ一人親しく往来していた同窓の男が地方へ就職して行ってからは、別に新しい友も出来ぬ。ただこの頃折々|牛込《うしごめ》の方へ出ると神楽坂《かぐらざか》上の紙屋の店へ立寄って話し込んでいる事がある。この紙屋というのは竹村君と同郷のもので、主人とは昔中学校で同級に居た事がある。いつか偶然に出くわしてからは通りがかりに声を掛けていたが、この頃では寄るとゆるゆる店先へ腰を下ろして無駄話をして行く。主人の妹で十九になる娘が居て店の奥の方でちらちらする時がある。色の白い女学生風な立ち姿の好い女である。晴々とした顔で奥から覗いて美しい眼を見せる時もあるが、また妙に冷たい顔をして竹村君などには目もかけぬ時がある。娘の姿のちらちらする日には竹村君は面白そうに一時間の余も話し込んでいるが、娘の顔を見せぬ日は自然に口が重くてそうかといって急に帰るでもなく、朝日を引切りなしに吹かして真鍮《しんちゅう》のしかみ火鉢の片隅へ吸殻の山をこしらえる。一週間に一遍くらいはきっと廻って来るが、いつ来ても同じような話ばかりしている。店へは郷里の新聞が来ているので話はよく郷里の噂になる。それから昔の同級生の噂になる。福見や河野
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