なかった。
 ねずみの跳梁《ちょうりょう》はだんだんに劇烈になるばかりであった。昼間でもちょろちょろ茶の間に顔を出したりした。ある日の夕方二階で仕事をしていると、不意に階下ではげしい物音や人々の騒ぐ声が聞こえだした。行って見ると、玄関の三畳の間へねずみを二匹追い込んで二人の下女が箒《ほうき》を振り回しているところであった。やっとその一匹を箒でおさえつけたのを私が火箸《ひばし》で少し引きずり出しておいて、首のあたりをぎゅうっと麻糸で縛った。縛り方が強かったのですぐに死んでしまった。その最期の苦悶《くもん》を表わす週期的の痙攣《けいれん》を見ていた時に、ふと近くに読んだある死刑囚の最後のさまが頭に浮かんで来た。
 もう一つのねずみがどこへかくれたか姿を消してしまった。何も置いてない玄関の事だからどこにものがれるような穴はない。念のために長押《なげし》の裏を蝋燭《ろうそく》で照らして火箸で突っついて歩いたがやはりそこにもいなかった。ただ一か所壁のこぼれたすみのほうに穴らしいものが見えたが光がよく届かないのではっきりしなかった。それが穴だとしてもそれを抜けてどこへ出られるかという事が明瞭《めい
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