ねずみと猫
寺田寅彦
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)請負人《うけおいにん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あたま[#「あたま」に傍点]の
−−
一
今の住宅を建てる時に、どうか天井にねずみの入り込まないようにしてもらいたいという事を特に請負人《うけおいにん》に頼んでおいた。充分に注意しますとは言っていたが、なお工事中にも時々忘れないようにこの点を主張しておいた。大工にも直接に幾度も念をおしておいたが、自分で天井裏を点検するほどの勇気はさすがになかった。
引き移ってから数か月は無事であった。やかましく言ったかいがあったと言って喜んでいた。長い間ねずみとの共同生活に慣れたものが、ねずみの音のしない天井をいただいて寝る事になるとなんだか少し変な気もした。物足りないというのは言い過ぎであろうが、ほんとうに孤独な人間がある場合には同棲《どうせい》のねずみに不思議な親しみを感ずるような事も不可能ではないように思われたりした。
そのうちにどこからともなく、水のもれるようにねずみの侵入がはじまった。一度通路ができてしまえばもうそれきりである。
夜おそく仕事でもしている時に頭の上に忍びやかな足音がしたり、どこかでつつましく物をかじる音がしたりするうちはいいが、寝入りぎわをはげしい物音に驚かされたり、買ったばかりの書物の背皮を無惨に食いむしられたりするようになると少し腹が立って来た。
請負師や大工に責めを帰していいのか、在来の建築方式そのものに欠陥があるのかどうかわからない。考えてみると請負師《うけおいし》や大工に言ったくらいでねずみが防ぎきれるものならば大概の家にはねずみがいないはずである。しかし実際ねずみのいない家はまれであり、ねずみがいなくなると何かその家に不祥事が起こる前兆だという迷信があったりするくらいだから、少なくもわれわれ日本人は天井にねずみのいる事を容認しなければならない事になっているかもしれない。それを自分だけが勝手に拒絶しようと思うのはあまりに思いあがったハイカラの考えかもしれない。ある人の話では日々わずかな一定量の食餌《しょくじ》をねずみのために提供してさえおけば決して器具や衣服などをかじるものではないという事である。ある経済学者の説によるといかなる有害無益の劣等の人間でも一様に「生存の権利」というものがあるそうである。そんならねずみだって同じ権利を認めてやらないのはわるいような気がする。しかしそういう権利が人間にさえあるのかないのか自分にはわからない。かりにあるとしたところで両方の権利が共立しない時に強いほうの動物が弱いほうをひどい目にあわせるのは天然自然の事実であっていかなる学者の抗議もなんの役にも立たないようである。
科学の応用が尊重される今日に、天井や押し入れの内にねずみのはいらないくらいの方法はいくらでもできそうなものだと思う。ある学者は天井裏に年じゅう電燈をともしているそうであるがこの方法はいかに有効でもわれわれには少しぜいたくすぎるような気がする。もう小し簡便な方法がありそうなものである。だれか忠実な住宅建築の研究者があって、二三日天井裏にすわり込むつもりでねずみの交通を観察したら適当な方法はすぐに考えつくだろうと思われる。そのような方法は学者のほうではとうの昔にわかっているのをわれわれが知らないのか、知ってもそれを信じて実行しないのかもしれない。住宅建築の教程にねずみに関する一章のないはずはあるまいと思う。
大工を呼んでねずみの穴の吟味をさせるのもおっくうであるのみならずその効果が疑わしい。結局やはり最も平凡な方法で駆除を計るほかはなかった。
殺鼠剤《さっそざい》がいちばん有効だという事は聞いていたが、子供の多いわが家では万一の過失を恐れて従来用いた事はなかった。しかし子供らもだいぶ大きくなったから、もう大丈夫だろうと思って試みに使ってみた。するとまもなく玄関の天井から蛆《うじ》が降り出した。町内の掃除人夫《そうじにんぷ》を頼んで天井裏へ上がって始末をしてもらうまでにはかなり不愉快な思いをしなければならなかった。それ以来もう猫《ねこ》いらずの使用はやめてしまった。猫いらずを飲んだ人は口から白い煙を吐くそうであるからねずみでも吐くかもしれない。屋根裏の闇《やみ》の中で口から燐光《りんこう》を発する煙を吐いているのを想像するだけでもあまり気持ちがよくない。
木の板の上に鉄のばねを取り付けた捕鼠器《ねずみとり》もいくつか買って来て仕掛けた。はじめのうちはよく小さな子ねずみが捕《と》れた。こしらえ方がきわめてぞんざいであるから少し使うとすぐにぐあいが悪くなる。それを念入りに調節して器械としての鋭敏さを維持する事はそう
次へ
全9ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング