物の場合が最も適当なものではないかというような気もした。人間の死や家畜の死にはあまりに多くの前奏がある。本文なしの跋《ばつ》だけは考えられないようなものである。
 子供らも身動き一つしないで真剣になって見つめていた。こういう事がらを幼少なものの柔らかな頭に焼きつけるという事の利害を世の教育家に聞いてみたらどんなものであろうか。たぶんはあまりよくないというかもしれない。それはもとより子供の素質にもよるだろうし、前後の事情にもよるだろうと思うが、実用的にはやはり、動物の生命を絶つ行為はすべて残酷でいけない事であるという事に取りきめておくほうが簡単で安全だろうと思う。そうかと言ってこのような重大な現象を無感覚に観過させないまでもそれを直視させるのをしいて避けるのもどんなものであろうか。
 ねずみを縛り殺していた時の私の顔がよほど平生とちがった顔になっていたという事をあとで聞かされて少し意外な気がした。こんな顔だったなどと言って鉛筆でかいて見せるものも出て来た。
 あとで聞いてみると、玄関の騒ぎが終わった後に女中が部屋《へや》へ帰ってすわっているうちに妙に背筋の所がぽかぽか暖かになって来たそうである。変だと思っているうちに、そこに重みのある或《あ》るものが動くのを感じたので、はじめて気がついていきなり茶の間へ飛び出し、奇妙な声を出し始めたのだそうである。
 窮鳥はふところに入る事があり、窮鼠《きゅうそ》は猫《ねこ》をかむ事があるかもしれないが、追われたねずみが追う人の羽織《はおり》の裏にへばりつくという事はあまりこれまで聞いた事がなかった。しかしあとになって考えてみると、締め切った三畳の空間からねずみが一匹消え去る道理はなかった。仮定的な長押《なげし》の穴はそれっきり確かめてもみないが、おそらくほんとうの穴でなかったろうし、たとえ穴であってもその背面には通っていない事が少し考えれば家の構造の上からすぐわかるわけになっていた。それでだれかの着物に隠れているという事は始めから自明的にわかりきった事であったのである。
 それにしても、羽織の裏にしがみついて人間と背中合わせにぶら下がったままで十分以上も動かないでいたねずみの心持ちがわからない事の一つである。極度の恐怖が一部の神経を麻痺《まひ》させて仮死の状態になっていたのか、それとも本能的の知恵でそうしていたのか、おそらく後者と前者が一つ事がらを意味するのではあるまいか。
 このような騒ぎがあった後にも鼠族《そぞく》のいたずらはやまなかった。恐ろしいほど大きな茶色をした親ねずみは、あたかも知恵の足りない人間を愚弄《ぐろう》するように自由な横暴な挙動をほしいままにしていた。

       二

 春から夏に移るころであったかと思う。ある日座敷の縁の下でのら猫《ねこ》が子を産んでいるという事が、それを見つけた子供から報告された。近辺の台所を脅かしていた大きな黒猫が、縁の下に竹や木材を押し込んである奥のほうで二匹の子を育てていた。一つは三毛でもう一つはきじ毛《げ》であった。
 単調なわが家の子供らの生活の内ではこれはかなりに重大な事件であったらしい。猫《ねこ》の母子《おやこ》の動静に関するいろいろの報告がしばしば私の耳にも伝えられた。
 私の家では自分の物心ついて以来かつて猫《ねこ》を飼った事はなかった。第一私の母が猫という猫を概念的に憎んでいた。親類の家にも、犬はいても飼い猫は見られなかった。猫さえ見れば手当たり次第にもの[#「もの」に傍点]を投げつけなければならない事のように思っていた。ある時いた下男などはたんねんに繩切《なわき》れでわな[#「わな」に傍点]を作って生けがきのぬけ穴に仕掛け、何匹かの野猫を絞殺したりした。甥《おい》のあるものは祖先伝来の槍《やり》をふり回して猫を突くと言って暗やみにしゃがんでいた事もあった。猫の鳴き声を聞くと同時に槍をほうり出しておいて奥の間に逃げ込むのではあったが。
 そんなようなわけで猫というものにあまりに興味のない私はつい縁の下をのぞいて見るだけの事もしないでいた。
 そのうちに子猫はだんだんに生長して時々庭の芝生《しばふ》の上に姿を見せるようになった。青く芽を吹いた芝生の上のつつじの影などに足を延ばして横になっている親猫に二匹の子猫がじゃれているのを見かける事もあったが、廊下を伝って近づく人の足音を聞くと親猫が急いで縁の下に駆け込む、すると子猫もほとんど同時に姿を隠してしまう。どろぼう猫の子はやはりどろぼう猫になるように教育されるのであった。
 ある日妻がどうしてつかまえたかきじ毛《げ》の子猫を捕えて座敷へ連れて来た。白い前掛けですっかりからだを包んで首だけ出したのをひざの上にのせて顎《あご》の下をかいてやったりしていた。猫はあきらめてあまりもがきもし
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